
人が倒れる鈍い音を合図に引きつったうめき声を上げたのは丸井だった。
二人のすぐ目の間で幸村が倒れている。彼の無造作に散らばった髪の一部が頬に張り付いており、そこを伝って汗が一つ滑り落ちた。
突然起きた予期せぬ出来事に、放心していた唯の眼前に丸井の背中が広がったことで、そこでようやく彼女もまた彼の後を追って走り出す。
「幸村くん! 幸村くん!!」
丸井のただならぬ声色に、周囲が初めて異変に気付く。それほどまでに幸村の変化は、その一連の光景を目にしていた丸井と唯以外の人にとっては微細なものに他ならなかったのだ。
狼狽した二人が幸村を囲む中、辺りの人間は遠巻きにその様子を見ているだけで、誰一人として救急車やまして大会本部の救護係を呼んでいるような素振りはなかった。
一様にして三人から一線を引きながらも、その動向だけは興味があるのか密かに意識を寄せている。ひそひそと囁き合う合間からは、まただとか、やっぱりという耳障りの良いとは言えない好奇に満ちた会話が漏れている。
だが、丸井も唯もそれどころではなく、倒れたきり目を覚まさない幸村をどうにかしなければという考えばかりが先行しており、周囲の不遜な光景に気付くことはなかった。
とにかく日陰に移動させなければと、丸井が恐る恐る幸村の背を抱きかかえたところで、わずかにできた人だかりをかき分けて二人のもとへと寄ってきたのは、白石と財前だった。
二人は幸村を見るなり、酷く驚いたように目を見開く。
「なんや声がしたと思うたら幸村くんやないか。大変や。財前。はよ救急車」
「もうとっくにしてますわ。俺やなくて柳さんがですけど」
財前が視線を上げた先に、騒ぎを聞きつけ駆け寄ってくる立海のレギュラーたちの姿があった。一様に慌てた様子だが、その中でも柳はいつもと変わらず落ち着いており、丸井に代わって幸村の身体を抱えた。
財前の言う通り、彼はすでに救急車の手配と大会本部への連絡を済ませていた。
「金ちゃんといい、あの幸村くんまで熱中症なるなんてなぁ。今年はホンマにけったいな年やわ」
「……それだけだったら良いんだが」
「ん? 柳くん。それどないな意味……あぁ、そうやな」
ぽつりと零した柳の様子に首を傾げた白石だったが、まもなく意味を理解したのか、歯切れを悪くして言葉を濁す。それから思いついたように立ち上がり財前に何やら耳打ちをした。
財前もまた彼なりに理解すると、ちらりと幸村を見た。あからさまな態度の変化は見られないが、彼の瞳がわずかに同情の色を帯びている。
白石と財前は改めて互いに顔を合わせてから、二人は先ほどよりも若干密度の増した人の輪に向かって声をかけ始めた。どうやら、過剰な騒ぎにならないよう、二人は野次馬の解消役を買って出てくれたらしい。
「白石。すまない」
「金ちゃんの時は柳くんには世話になったしお互い様や。こんなん俺たちに任しとき」
「俺より謙也さんのほうが向いとる気ぃしますけど」
「ああ言うても、やることはちゃんとやる奴なんやで」
「白石部長。一言多いっスわ」
幸村が意識を取り戻す気配はなかった。
これまでの事例を鑑みれば、誰もが初めに連想するのは例の影の少年だ。流行り病のように突然沸いて出たその存在は、あまりにも強烈なインパクトを人に植え付けた。
さすれば彼が目を覚ますまでにはさほど時間を要さないはずではあったが、幸村に関してはそれ以外にも懸念される要因を内包していた。
他校である白石ですらすぐに思い至ったのだ。立海のレギュラーたち、そして唯も影の少年と同じくらいにそれを連想しないはずがなかった。
こうして時間が経てば経つほど、影の少年の主張は薄らいでいき、代わりに幸村の病の再発という可能性が台頭してくる。
他でもない幸村自身の口から完治したとは告げられており、そもそも試合にエントリーが出来た時点で、彼の障壁になりうるものは取り除かれていると証明しているようなものだが、それでも、一度浮かんだ疑念をそう簡単に拭い去るのは難しいことだ。
もしも、その最悪な予想が的中してしまえば最後、今度こそ真田や柳は黙っていないだろう。もちろん丸井たちだって例外ではない。
幸村の本意がどうであろうとも、彼を止めるはずだ。
だからと言って、唯にはもう一つの可能性が捨てきれなかった。現に限りなく希薄になろうとも、その黒い少年の影が完全に潰えることはなかった。
遠くで鳴り響く救急車のサイレンを聞きながら、きっと彼もそうだろうと彼女は思った。
唯が顔を上げれば、まるで図ったかのように丸井と目が合った。彼女がもの言いたげに唇を開くと、丸井は僅かに首を横に振る。
その仕草が、あの時、二人だけが聞いたはずの彼の声そのものを否定したいのか、それともこの場限りで否定したいのか、一体どちらの意味での制止だったのか、彼の焦りに染まった瞳からは分からなかった。