
佐竹の落選を知ったのは、ちょうど二人が職員室で城咲の姿を見つけた直後のことだった。
電話の相手との会話のやり取りと城咲の反応から察した佐竹は、城咲がそれを置くよりも早く、あーあと苦笑を漏らすと、飲み物を買ってくると言い残し足早に職員室を出て行ってしまった。
あれだけ受賞を切望していた彼だ。この結果に堪えないはずがない。唯は、昨年自分がもし落選していたとしてどう考えていただろうかと想像してみたが、それはとても虚しく恥ずべきことでしかなかった。
同時にたった一年前の自分自身の出来事であるはずなのに、全くそこへ自分を重ねられない事実に彼女は酷く困惑した。
今も咄嗟に気の利いた言葉一つを彼に対してかけてやれないのが良い証拠だ。過去に佇む自分が、いつの間にかもう手の届かない場所まで遠ざかってしまった。そんな感覚だった。
こうして現状は職員室には唯と城咲の姿しかなく、彼が電話を終えてしまえば、いよいよ静寂が二人の間に横たわる。
部屋の隅に設えられた応接セットのテーブルの上には、真っ白なマグカップが一つ、クーラーの効いた室内においてむせ返る湯気を立てていた。
職員室へ入ってから城咲に早々に勧められたそれを丁重に断ったが、たとえ真夏であったとしても彼の趣向に揺らぎは全くないらしい。
「無川くんもいかがですか?」
ソファーに腰を下ろしてから、じっとマグカップに視線を落としている唯を見て、城咲がもう一度同じことを尋ねる。
若干の間を空けてから彼女が声もなく僅かに頷くと、彼は少し離れた場所にあるポットへ足を向けた。
佐竹が出て行ってから、より一層職員室は冷え切ったように感じた。窓の外からはジジという蝉の嘆きが漏れ聞こえてくる。夏の音と色はこんなにも強い。彼女にとってこの温度差は、決して心地の良いものではなかった。
「……寒い」
城咲に聞こえないほどの掠れた声で、唯はそう漏らすと軽く両腕を擦った。
皮膚のすぐ内側にも夏の熱がうずくまっている。浅く沈み込む指の一本一本がそれを掻き出そうと滑るが、どうにも難しいようで、城咲が戻って来る気配に彼女はとうとう諦めた。
目の前に置かれたマグカップに、唯がすぐさま手を伸ばし両手でそれを包み込む。軽く痛みを覚えるほどの暑さが手の平を舐め回るが、彼女は構わす指先に力を込めた。
その様子に気づいた城先は、寒いのかと彼女に問いかけてきた。慌てて唯は首を横に振ったが、城先はクーラーの温度を調整するために再び立ち上がった。
そうして佐竹が戻ってくるまでの少しの間、唯と城咲は話をしたのだが、彼からはテニスの試合についてだけ聞かれた。ただの一度も佐竹もそして唯の絵のことも話題にしなかった。
佐竹が戻ってきてからもそれは変わらず続き、逆に焦れたのか佐竹が自虐的に話題にせざるを得ない有様だったが、城咲はどうしてそんなことを言うのかという反応をみせた。
佐竹の指摘があまりにも意外だと全身で驚く城咲に、佐竹はすっかり毒気を抜かれ笑い出す始末で、結局は城咲に上手く転がされたのか、それともただの彼の素なのか判断が付かないまま、湿った空気は甘ったるい温度に混ざってしまった。
「一応俺だって、これでもやっぱへこむっつーか」
学校を出た彼は、開口一番にそう呟いた。だが、声色は全く普段と変わらない。
「いや、もう平気なんですけど。城咲先生って、あれ素なんですよね。あーでも変に気をつかわれるよりはマシですけど。まぁ、まだ来年があるし、頑張ります」
彼の口ぶりから、落選に関してはもう全く気にしていないようだった。
こういう割り切りの良さが、彼の長所の一つでもあった。
「総評来たら、城咲先生に相談しなくちゃな」
「!」
「ん? どうかしたんですか?」
「いえ。総評届いたら、私も見てもいいですか?」
「あぁ勿論。無川部長にもすごくお世話になりましたし」
最終選考まで進んだ作品の総評が届くのは十月だ。
佐竹は、城咲が九月で教職を辞すことを知らない。もちろんそれは佐竹に限らず、唯以外のどの生徒も知らされていないはずだ。城咲が自ら口外しない以上、彼女が勝手に口にする訳にもいかなかった。
恐らく城咲の話が正式に広まるのは、九月末近くかもしれない。やはり寂しいものだと、彼女は改めて残された時間を認識した。
佐竹と駅で別れ家に戻れば、いつも真っ先に玄関先へ迎えにくるはずのネロの姿がなかった。
母親は朝から出かけており、父親もまた帰りが遅くなる予定で、今日は深夜まで唯とネロだけになる。
不思議に思って彼女が自室へ入ると、彼女のベッドの上に彼が我が物顔で寝そべっていた。
すっかり熟睡しているのか、なだらかな背が一定のリズムで上下している。そうして彼の首元から覗く首輪を見た瞬間、唯は唐突に思い出した。
(あ、しまった。お店寄ってくるのすっかり忘れてた)
帰りのついでに駅のすぐ近くにあるペットショップへと寄るはずだったのだが、すっかり失念したまま帰ってきてしまった。
時計を見れば、閉店までまだ十分時間がある。棚卸しの関係から店は明日より数日間休業日に入ってしまう。
どうせ時間はあるんだからと、唯は早々に着替えを済ませると、未だに眠りに落ちているネロを見やってから部屋を出た。