
その少年は、遠山金太郎と名乗った。
唯も自分の名前を伝えたが、彼はそれからもずっと彼女を「ねーちゃん」と呼んでいることから、はたして覚えてもらったかは怪しいところだ。
背格好や仕草から少なくとも唯よりは年下、おおよそ小学生の高学年くらいに見える彼の背中には、テニスバッグとその他に黒いリュックサックがぶら下がっていた。
遠山について更に詳しくは聞いていないが、この場所にいるということは彼もまた誰かを応援しに来たのだろうかと唯は考えていた。
「テニスボールは洗ったらアカンで」
「そうなんだ。知らなかった」
唯の隣に座った遠山は、例の汚れたテニスボールを握り締めて笑った。
早くももう乾き始めているらしく、唯は水で濡れた手をハンカチで拭いながら、これもあっという間に同じように乾くのだろうと思った。
遠山の服装は、豹柄のタンクトップ一枚にハーフパンツと見た目は非常に涼しそうな姿をしていたが、唯以上に全身に汗をかいている。
彼は背負っていたリュックから取り出したタオルで頭をがしがしと拭きながら、更に奥から何やら探しているようだった。
「……あり?」
「どうしたの?」
「ジュース買おうと思ったねんけど、どないしよ。ワイ財布どっかに落としてしもうたわ……」
「え? 大変。どこで落としたか金太郎くん覚えてないかな?」
「全然覚えてへん……あっ、そうや!」
遠山はがっくりと項垂れたかと思うと、何か思いついたのかばっと顔を上げた。
彼と会ってから唯がずっと感じていたことだか、遠山は本当に表情が目まぐるしく変わる。まるで、小さな子供のようだ。
遠山はそれまでリックサックの中をまさぐっていた手を止めると、今度は外側の底面辺りをしきりに探り始める。
「オカンが、困ったらここにお金があるってゆうてたんや」
彼が話す通り、確かに底面の一部に同系色の布を縫い付けた跡が見える。
遠山は指先でそれを引き剥がそうとした。
「待って金太郎くん。そのお金はもっと大事な時に使った方が良いと思うよ。もしかしたら財布も届いているかもしれないから、後で受付に行ってみよう。良かったらこれあげる。まだ開けてないから」
「ええの? ねーちゃんホンマおーきに!」
唯の差し出した缶ジュースを遠山は嬉しそうに受け取る。よほど喉が渇いていたのか、彼はそれを一息に飲み干した。
「ワイな。皆より一日遅れてこっち来ることになったんやけど、間違えて静岡で新幹線降りてしもうてん。だからそっからここまで走ってきたんや」
「え? 静岡から? ここまで!?」
唯が目を丸くしていると、遠山は力強く頷く。彼が冗談を言っているようには全く見えなかった。
「あ、こんなとこおった。金ちゃーん!」
遠山につられて唯も声の方を見ると、彼に向かって大きく手を振る少年の姿があった。
彼は慌てた様子で駆け寄り遠山の腕を掴んだ。
「白石。何すんねん!」
「金ちゃんこそ急ぎ! もうエントリー締め切り十分前や!」
「え? エントリーって、もしかして金太郎くんも試合出るの?」
驚いて唯は白石と呼ばれた少年をまじまじと見た。
彼の着ているジャージは、緑と黄色を基調にしたもので、彼女から向かって右胸には「四天宝寺」と書かれたロゴがあった。
(四天宝寺って、確かトーナメント表にあった。立海と同じシード校の……)
あらかじめもらっていたトーナメント表の裏側に、主将名の一覧もあったはずだ。それを見ていた佐竹と藤ヶ谷が注目選手について話していたのを唯も隣で聞いていたのだが、その中に白石蔵ノ介という名前もあった。唯の記憶が正しければ、彼がそうなのだろう。
そしてもう一つ、彼女の目をひいたのは白石の左腕だ。手首から肘の近くにかけて白い包帯が巻かれている。
怪我でもしているのかと考えていると、彼女の視線に気づいた白石が、唯の制服を見てふっと笑った。
「そないな格好してたらアカンやろ。ちゃんとジャージ着いや。自分、立海の子やろ? 金ちゃん捕まえとってくれておおきに。ほら金ちゃん行くで。急がんと……」
白石は唯に向けた笑顔をそのままに遠山に向き直り、左手の包帯に手をかける。そして、包帯止めの金具を外し端を摘まみ上げた。瞬間、みるみる遠山の顔が青ざめていく。
「い、いやや。いやや。毒手はいやや!」
「やったら急ごか。金ちゃん」
(ど、どくしゅ?)
ぶんぶんと頭を縦に何度も振った遠山は、白石から逃げるように走り出す。
その姿を見て、白石は苦笑しながら外しかけた包帯を巻き直した。
「ホンマ、ゴンタクレにはよう効くわ。ほな、立海の皆はんにもよろしゅう」
「あ、はい」
只ならぬ単語が気になったものの、白石が丁寧に頭を下げてきたので、唯も同じように返した。
そのまま遠山が置き去りにした荷物を手に、彼を追いかけながら白石が叫ぶ。
「あ、金ちゃん、そっちやない! こっちや!」
まもなく追いつかれた白石に襟首を掴まれて、遠山が素っ頓狂な声を上げるのが唯の耳にまで届いた。