
「幸村くんがまだ来ていない?」
立海の生徒の集団の中に藤ヶ谷の姿を見つけた唯が近づくと、彼女は真っ先にそう小声で告げてきた。
「うん。さっき柳くんから聞いたの。どうやら携帯も繋がらないみたい」
「はぁ!? 何やってんだよ。エントリー締め切りまで、あと一時間もないだろ?」
立海はシード権を持っているため関東大会と同様に二回戦からの参加を予定しているが、出場選手のエントリー登録は大会開始前の決められた時間内に行う必要がある。
事前に記入済みのエントリーシートは、テニス部の部長である幸村が所持している。シート自体はいくらでも替えがあるが、選手はそうもいかない。ましてや、それが主将の幸村であればなおのことだ。
万が一にも彼を登録から外すなど考えられない。かと言って、この場にいない人間を登録も出来ない。このままもし幸村が姿を見せなければ、最悪、別の選手で補填しなければならなくなる。
不測の事態に備え、誰かが抜けた場合を想定した予防線も抜かりなく張ってはいるだろうが一体どうするのだろうかと、唯も心配しながらレギュラーたちのいる方を見やった。
そうして彼女の目が切原の姿をとらえた。
一昨日、国舘と共に階段から転落し怪我を負った彼だが、その後の検査でもさして問題はなく、当初の予定通り決勝戦は柳とのダブルス2でのエントリーが決まっている。その他の試合はシングルスでも出場するらしい。
唯が昨晩切原にメールを送ってみたところ、普段通りの返信が来たことから、心中はどうであれ国舘については引きずっていないようだった。
やがて幸村が姿を見せないことに生徒や部員が薄々異変に気づき始めた頃、ようやく彼が息を切らせながら真田の元に駆け込んできた。
「精市!」
「すまない。連絡も入れないで遅れてしまって」
幸村の顔を見るなり、真田と柳が互いに目配せをした。周囲から注がれる安堵と不安の入り混じった視線はそのままに、三人は輪から少し離れた場所へと移動する。
「精市、まさかとは思うが」
「大丈夫だよ」
柳の言葉に被せるように幸村が短く言い切る。
真田も柳と同じ考えだったのか、彼の答えに眉間に深く皺を寄せた。
「顔色が悪い。もし、再発したのなら登録はできんぞ」
「弦一郎まで大げさだよ。国舘のところに寄ってきたんだ。試合には支障ないよ」
そう言って彼は提出用のエントリーシートを取り出した。有無を言わせないと幸村は真田を見つめる。
彼はしばしの間瞑目したが、やがて諦めたのか軽く頭を振ってそれを受け取った。
幸村が無事エントリーを済ませたと藤ヶ谷から聞いて、唯はほっとして胸を撫で下ろした。
「立海の試合は二回戦からだし、これから他校の写真撮ってくるつもりなんだけど、唯はどうする? 一緒に行く?」
「ううん。私、少し向こうで休んでくる。試合の時間になったらコートに行くよ。5番コートだよね?」
「うん。5番。まー暑いもんね。分かった。じゃあ後で。熱中症には気をつけて」
「空もね」
手を振って駆け出す藤ヶ谷を見送ってから唯は時計を見た。二回戦の試合まであと一時間以上もある。
気温はうなぎ上りに高くなりつつある。このまま行けば日の下に長く立っているのは耐え難いほどに暑くなるだろう。
一緒だった佐竹も今は唯の近くにはいない。彼は浦山と会った際、どこかへと連れて行かれてしまったのだ。
佐竹と浦山はテニス部の合宿で相部屋になって以来、学年が異なるのにも関わらず意外と仲は良好のようだった。
特に立海以外に試合を観るつもりもなかった唯は、とりあえず時間まで木陰で過ごそうと、視線の先に向かって歩き出した。
そこは大きな木を中心に四つのベンチで囲った休憩スペースだった。
ベンチの上に日覆用の屋根も付いており、更にすぐ近くには飲み物の自動販売機もある。既に何人か涼んでいる姿が見えるが、まだいくらか余裕があるようで、彼女が時間を潰すにはうってつけの場所だ。
唯がドリンクを買ってベンチに座れば、どっと疲れが押し寄せた。まだ試合すら始まっていないのにこの調子とは、先が危ぶまれるなと唯は一人苦笑いを浮かべた。
「……ん?」
ふと、足に何かが当たった感触に彼女が視線を落とせば、そこにはテニスボールが転がっていた。
唯は思わずそれを拾い上げると首を傾げる。
この場所はどちらかと言えばコートから離れており、コートのフェンスを越えてこのボールが飛んできたとは考え難かった。
そして何より、このボールは全体的にまるで泥水にでも浸かったかのように茶色く濡れていた。彼女の指にも靴先にもほんの少しの泥が付いている。
「あっ!」
弾んだ声に唯が顔を上げると、少し離れたところに一人の少年が立っていた。そして、彼女と目が合った瞬間、満面の笑みを浮かべながら走り寄ってきた。
「ねーちゃん堪忍な! それ、ワイのやねん!」