カレイドスコーピオ

インビジブル

11.全国大会 / 4

 一つの場所に人が多く集まるということは、良い面も悪い面もある。
 例えば、大海に絵の具を一滴落とし込んだところで、その色が全体に広がるなどあり得ない。だが一度溶け込んでしまったら最後、それを再び取り出すのはもはや不可能だ。一方で見方を変えればこれ以上の隠し場所はないだろう。
 今の状況が、あるいは己の考えがはたしてどちらに当てはまるのか、そんなこと考えるだけ野暮な話だと仁王は一人笑った。
 解いた髪の襟足の一部が、既にじっとりと汗が浮かんだ首筋にまとわりついている。
 昨年も一昨年もそうだったが、どうしてこうも狙ったように全国大会の当日は暑くなるのだろうかと、仁王はそのことだけには特にうんざりしていた。
 指先に引っ掛けたままの赤い髪留めは、相当年期が入っているらしく所々がほつれ毛羽立っている。
 いい加減に換えなければと彼も理解はしているのだが、やけに馴染んでしまっていて中々踏ん切りがつかない。
 以前、丸井に悪戯で解かれた際に余りのその痛みようを見て、思い入れがあるのかと聞かれたことがあったが、何と返したか仁王は良く覚えていなかった。
 そのまま指先で必要以上に捻ったり伸ばしたりして遊んでいると、いよいよ一端がぴりと裂ける感触がする。
 彼は思わず「あ」と漏らし、慌てて湿った髪を縛った。

「少しば北だけん期待してたけんど、東京も変わらず暑かね」

 後方から響くやけにのんびりとしたその声に、はっとして仁王が勢いよく振り返る。
 そこには、額に手をかざして眩しそうに目を細める長身の男がいた。明らかに立海の生徒ではなく、ましてや仁王の知り合いでもない。
 彼がそのまま仁王との距離を詰めれば、その足元よりからんと似つかわしくない軽い音が響いた。

 仁王の隣に当たり前のように腰を下ろした彼は、やはり当たり前のように仁王に話しかけてきた。

「こぎゃん暑かと、逃げ場所も中々見つからんたい」
「……」
「ここんにけ涼しか。それに人もおらん。良い場所ばい」
「……」
「どぎゃんしたと?」

 無言のまま仁王から浴びせられる視線にそこでようやく気づいたのか、彼は不思議そうな顔をした。
 二人が今いる場所は、テニスコートとテニスコートとを繋ぐ通路にある茂みの中だった。
 茂みとはいえ仁王のいたこの一角はコンクリートが打たれている。そこに腰を下ろしてしまえば、通路に沿って張り出している高さのある生け垣の影にちょうど隠れるため、通路を通る人からは完全に死角になっていた。更に真上からの強い日差しもすぐそばの樹木の葉に遮られ、体感的にもずっと涼しく感じるのだ。
 中学一年生の時から仁王はここをただ一人の避難場所として使っていたが、今の今まで他の人間に見つかったことはなく、また、仁王自身も見つからないであろうという自信もあった。
 だからこそ突然彼が現れたのは彼にとって全く予期せぬ展開だったのだ。
 彼の言葉こそは仁王がここにいることを知らなかったというニュアンスだが、一方の態度はあまりそうは見えない。
 現に仁王のあからさまな態度にも、彼がこの場を去ろうとする気配は全くなかった。

「去年は四天宝寺が負けたとたい。じゃけん、今年はそういかんとばい」
「そもそも去年は、お前さんは四天宝寺にはおらんかったはずじゃ。千歳」
「何ね。俺のこつ知っとったとね?」

 千歳千里はそう口にするが、恐らくこのやり取りも彼の想定の内なのだろう。
 そう理解している仁王は、冷ややかな視線を一瞬送るだけだった。

「色々あって、獅子学から四天宝寺に転校したったい。立海とまいっぺん試合出来るのは決勝だけんど、そん前に青学との試合があっと。金ちゃんが青学のルーキーとの試合楽しみにしとるばい」
「そうか。なら、せいぜい頑張りんしゃい」

 仁王は口早にそれだけを言うと立ち上がる。
 いずれにせよここに来るのも今年で最後になるだろうが、それとこれとは別の話だ。他人が自分のテリトリーに踏み込んだ以上、仁王にとってこの場所はもう特別な意味を成さない。
 今日が終わるまでは別な場所を見繕わなければならないのかと、仁王の頭の中は既にそのことばかりで占められていた。
 そのため、千歳の呼び止める声にも全く気が付かなかったが、いよいよ彼が仁王の腕を掴んだことで、初めて二人の視線がしっかりと絡み合った。

「そぎゃん邪見にしとらんと良くなかと。邪魔してもうたのは悪かったばい」
「お互いもうすぐ試合じゃろう」

 仁王が掴まれた腕を引くが、千歳は笑ったまま放そうとしない。二回ほどそれを繰り返したのち、大きくため息をついた仁王は諦めたように座り直した。

「そこまでするからには、それなりの理由があるんじゃろうな」
「あぁ、どうしてん確認したいこつがあるばい」
「こっちのオーダーの話なら、俺に聞くだけ無駄ぜよ」
「はは。面倒な話じゃなかとよ。そぎゃんこつは小春に聞けばよか」

 それまで、終始態度を崩さなかった千歳が言い淀んで空を見上げる。いつの間にか彼は真剣な目をしていた。

「……無川無川。どうしお前んと同じ匂いがすっとね?」

2015/08/10 Up