
「仁王」
柳は仁王の姿を見つけると、その歩みを速めた。
彼は廊下に均等に並べられた長椅子に腰をかけている。彼のすぐ隣には、唯と柳生の姿もあった。
時間にして既に十九時を回っており、日中であれば人で溢れかえっているはずの待合室には、今は仁王たちの他に数人の姿しか見えない。
診察を終えたであろう家族連れが、廊下の突き当たりにある出入り口へと向かっていく。そこにあるのは病院の正面入り口ではなかった。
開いた硝子張りの自動ドアが閉じると、その表面には『金井総合病院救命救急センター』と大きく文字が並んでいた。
「参謀」
そう言って顔を上げた仁王は、柳の姿を見るなりすっと視線を診察室の方へと流す。
同じく柳もそこを一瞥してから、今度は彼の隣にいる唯と柳生を見やれば、二人とも青ざめたような表情をしていた。
眼鏡の影響もあってか、言葉を発さなければやや感情が読み取り難い柳生ですらこの調子だ。それだけに仁王との対比に、柳は僅かに眉をひそめた。
「幸村と真田は?」
「顧問と教頭に事情を説明している。もうじき顧問と一緒にここへ来るはずだ」
柳は仁王の隣に腰を下ろした。彼が、続けざまに丸井とジャッカルも病院へ向かっていることを伝えると、仁王はそうかと短く答えただけだった。
「精市から事情は聞いたが……実際のところ、一体何があったんだ?」
「国舘が階段を踏み外して、庇った赤也も一緒に下まで転げ落ちた」
「……その説明で、到底精市も、いや、誰も納得しないだろう。無論、俺もだが」
「納得も何も、他でもない当事者の国舘がそう言っとるんじゃ」
彼の返答に、柳は表情こそ変えないが短く息を吐くと話を続ける。
「事と次第によっては、明後日の全国大会の出場辞退も十分考えられる」
「……幸村がそうさせんじゃろう」
「だから事と次第だと前置きしただろう。学校側もまず監督責任に抵触するかについて眼目しているはずだ。だとすれば俺としても尚のこと、顛末を頭に入れておきたい」
柳が手元のノートを開いた。部活中に使用しているものとは装丁が異なるそれには、細かな字が並んでいる。
彼の浅く開かれた瞳はそれらを順になぞっていたが、やがて視線を落とした姿勢はそのままに仁王へと向けられる。
互いに横目で視線が絡んだ。柳の差す顛末の意図が、この転落事故に留まった話ではないことは明白だった。
「釈明の相手には、この上なく好都合だとは思うが?」
彼が再びノートに興味を戻してからそう重ねれば、仁王は彼から視線を逸らさないまま、その目をただ細めた。
開きかけた自動ドアをもどかしげに開くようにして、暗闇の向こう側から赤い色が覗いた。
彼は、見知った人の姿を見つけるや否や、慌ただしい足取りで駆け寄ってきた。
「赤也と国舘が階段から落ちたって、一体何があったんだよぃ!」
「おい、ブン太。ここ病院だぞ。少し声抑えろよ」
丸井の様子に、周囲の怪訝そうな視線が集中する。
後を追い掛けてきたジャッカルが彼を諌めるように声をかけると、丸井は苛立ちの矛先を彼に向けた。
掴みかかる勢いの丸井に、ジャッカルは困惑した様子で仁王と柳を見た。
「ジャッカルの言う通りだ。丸井、場所を弁えろ」
静かに響いた柳の声に、そこでようやく自分に注目が集まっていることに気付いたのか、丸井は気まずそうに頭を下げ、近くの長椅子に腰を下ろした。
「ところで、二人の具合はどうなんだ?」
「それなら心配はない。ジャッカルたちが来る少し前に病院側からの説明は聞いた。詳しくは仁王から聞くと良い。俺は、精市に報告をしてくる」
そう言って立ち上がった柳は、ちらりと仁王を見た。彼は柳を見なかったが、答えるように小さく手を挙げた。
了承と受け取ったのか、柳も特にそれ以上追及することもなく、病院の出入り口の方へと向かっていく。
柳の後姿を見守っていた丸井は、やがて先程まで柳が座っていた場所へと座り直すと、真剣な表情で仁王に詰め寄った。
「なぁ、仁王。何があったのか、俺らにもちゃんと教えろよぃ。お前と唯が一緒だったんだ。ぜってーただの事故なんかじゃないんだろ?」
「そうじゃのう。じきに参謀から広がる話じゃ。今更隠したって仕方がない。ただ、ここじゃ場所が悪い。それに、どの道、幸村たちと合流するし、詳しくはその時に話すぜよ」
仁王の説明に丸井は不服そうな様子を浮かべたが、診察室の扉が開いた気配に顔色を変えて音の方を見た。
診察室から出てきたのは切原だった。傍らには彼の両親の姿もあり、仁王たちの姿を認めると軽く頭を下げた。
切原の顔色はそれほど悪くはなかったが、右前頭部にはガーゼが当ててあり、また制服から覗く両手首にも包帯が巻いてあった。
その姿に丸井は一瞬酷く動揺したが、切原の母親から大事に至っていないことを聞いて心底ほっとしたように表情を緩めた。
周囲の心配する言葉に頷いていた切原だが、不意に視線を落とした。痛むのかと丸井が尋ねれば、彼はゆっくりと首を横に振る。
それから、苦しげに表情を歪めて、弱々しく言葉を紡いだ。
「国舘の目、もう、駄目なんだって」