
仁王の隣に並びながら、唯は全くと言っていいほど光源のない石畳を進んでいく。
鳥居から本殿までの距離は予想以上に短く、あっという間に奥まで辿り着いたが、そこは人気がなく寂しいというよりは、ただ何もない空き地に一人で立ち尽くしているような、どちらかと言うとそんな印象を受ける空気が漂っていた。
彼は賽銭箱までの木段を上がると、遠慮なくそれを背にして腰を下ろす。彼に倣うことはさすがに憚られた唯は、段の下で立ち尽くしたまま仁王を見上げた。
すると、ここまで終始無言を貫いてきた彼が、口を開いた。
「無川のその顔、大方罰当たりとでも思っとるのかのう。そんなに心配しなくとも何も問題なんてないぜよ。ここはもう抜け殻じゃ」
「抜け殻?」
「あぁ、ここはもう形ばかりで神社としての役割は無くしてる。まぁその内、狐でも蛇でも住みたい奴が勝手に潜り込むじゃろ」
彼の差すその狐も蛇も、決して生きているそれを指しているわけではない。
それはそれで何だか悲しいものだなと唯は思いながら、仁王に尋ねた。
「それじゃあ、ここに元々いて祀られていた神様、なのかな? 今は一体どこにいるんですか?」
「知らん。そのまま消えたか、野良になって最終的に祟るかそれくらいじゃろうなぁ。どっちにしても神様は俺の専門外ぜよ」
「何だか、人間とそう変わらないんですね」
「人や動物、しいては無機質なものまでが神様になることもあるし、思想から神様がつくられることもある。別に珍しいことでもないが、有り難がってここに参拝しとる人間がいたら、それは難儀じゃのう。空き箱に願掛けをしたところで意味なんてなにもない。ただの無駄骨じゃ」
「だから、ここにはさっきから”いる”んですね」
そこで唯もようやく木段を上がり、仁王の隣に腰を下ろした。先人なのか通りすがりなのか、それらは先程よりただ静かに木々の間から二人を遠巻きに眺めている。
仁王の右手の人差し指には、細い糸のような桃色のビニール紐が引っかかっていた。唯がそれを見つめていると、彼の身体の影に指が隠れた。
「良く素直に着いてきたのう。俺が仁王雅治かどうかも確かめずに」
「はい。でも、ちゃんと見分けられるようになりましたから。これだけ蒼い色は、仁王くんぐらいです」
「さすがに少しは学習したみたいじゃな」
「おかげさまで」
少しの間、沈黙が二人を包んだ。
唯がどの話から切り出すか迷っていると、先に仁王が続けた。
「無川。前に、”この世で一番恐ろしいものは何か”と俺が聞いたことを覚えてるかのう?」
「え? あ、怖いと恐ろしいの違いについて話した時のことですね」
「あぁ、あの時の無川にとっては、対象が幽霊だったように、人によって答えはいくらでも変わるぜよ。一意な答えなんて、正解なんて最初からないんじゃ。のう、無川。今もそれは変わらないか?」
「そうですね。今は、少し違うかな。今、恐ろしいに当てはめるなら、間違いなくジョーカーですね。未だに目的が全然分からないのに、やってることが段々酷くなってる……ねぇ、仁王くん、ジョーカーの正体は――」
「俺にとってのその対象は、何だと思う?」
仁王が唯の言葉を遮る。
出鼻をくじかれた彼女は、彼の有無を言わせないと告げる瞳を見て、自分の話を推し進めるのをとりあえず諦めた。
「仁王くんにもそういうのがあるなんて、正直ちょっと意外です」
「俺を一体何だと思っとるんじゃ。まぁ良い。俺にとって、最も恐ろしいと感じるのは言葉ぜよ」
その意外な響きに、唯は目を丸くした。少なくとも、全く予想もしていなかった答えだった。
「言葉、ですか? それって、仁王くんが使ったりする、何か特別なのものだったり?」
「いや。発せられるものも、綴られるものも全部ひっくるめた広範な意味での言葉じゃ」
「一体それのどこが、仁王くんにとって恐ろしいんですか? むしろ、そういうのを普段から上手く扱ってるように見えるから、あんまりしっくりこないです」
彼は最初に、綴るものも対象に含めると言っていた。唯は仁王の綴る、あの自分には読めない文字の羅列を思い描く。きっとあの文字にも、相当な意味があるのだろう。
「確かにのう。だからなのかもしれん。言ってしまえば、俺にとって言葉とは、感情の伝播を目的とした無形のものではなく、どんな人間であっても、自分の感情を有形化して相手に影響を及ぼす力を持っている。そこには相手に対する疎通も齟齬、それこそ言語の違いとかそんなものは一切関係ない。そう、本来はただただ原始的なものなんじゃ。言葉を毒にも薬にもするのは、結局のところ自分自身の完結した言葉次第ぜよ」
「何だかすごく難しい話ですね。でも、それって聴く側が言葉の意味を理解していないのに、話す側の言葉の影響が出るってことですよね。それって何だか少し一方的過ぎて寂しい感じがします」
「だから、”俺にとっては”と前置きしたじゃろう」
唯は更に言葉を重ねかけて止めた。
珍しく仁王が自分のことを話したのにも関わらず、彼が再び遠くなったように彼女は感じていた。
「どうして、急にこんな話をしたんですか」
「無川が」
そこで仁王は、一旦言葉を切った。
ゆっくりと彼は唯に向き直る。再び鮮やかな桃色が、彼女の視界の隅を突いた。
わずかに細められた仁王の瞳は、周囲の冷気を吸ってその色を増していく。
「俺は、ジョーカーが、無川じゃないのかと考えとったんじゃ」