
動画ファイルは二つあった。
一つは、藤ヶ谷から唯がコンパクトフラッシュカードを受け取った際に見せられた先程の山犬の死骸で、もう一つは山小屋で襲撃を受けた時のものだ。
彼女はまだ一度も目にしていない、後者の動画から先に確認することにした。
(真田くんが山犬を殴った時って、私は隅の方にいたし浦山くんのこと心配でそっちばかり気にしてたから、良く見てなかったんだよね)
いざ再生し始めると、当時の緊迫したやり取りの音声も漏れなく入っていた。ところが、特筆して気になることもなく動画は進んでいく。
やがて場面は真田が山犬を火掻き棒で殴り倒すシーンになった。
この状況下でそれでも冷静に撮影を続けていた藤ヶ谷の視点が、響き渡った激しい物音に反応して大きく揺れる。すぐに、床に崩れた山犬を写したかと思うと、ぐるりと方向転換し全員の表情を確かめるように流れていく。
焦りを滲ませた「大丈夫?」という藤ヶ谷の小さな声が被さった。
「あれ?」
思わず唯は動画の停止ボタンを押した。少し巻き戻して再び場面が動き出す。
一体何に気を留めたのか、唯自身も最初は理解が出来なかったが、数度動画を観返す内に、疑問がそのまま彼女の口を転がり出た。
「……仁王くん。これ、どこ見てる?」
それは、真田によって山犬が壁へと叩きつけられた次の瞬間のことだった。
張りつめた空気が最高潮に達した中で、皆の視線が真田あるいは山犬へと注がれている中、仁王のその目だけは違う場所へと向けられていたのだ。時間にして、ほんの数秒程度の出来事だ。
彼の視線の先を辿っていくと、それは真田よりもずっと上の方へ繋がっていた。
「駄目だ。見切れてて何見てるのか分かんない」
唯が目を凝らしてみるものの、仁王の変わらず感情の読めない瞳がとらえているものを見つけることが出来なかった。
「あとちょっと上なんだけどな。空に聞いたら何とかなるかな。わっ!」
膝に突然感じた重みに、彼女は驚いた声を上げ反射的に身体を引く。ネロだ。
彼は一声鳴くと、PCのモニターをじっと見上げた。
「びっくりした。ネロが観ても面白くないよ。あ……」
偶然停止したその場面は、今までにないほどの違和感を唯に覚えさせた。
何の変哲もなく見える壁の周囲がやけに彼女には引っかかり、ディスプレイに顔を近づけ、その理由を探す。
やがて、ぼんやりと黒い靄のようなものが浮かび上がり、唯はあっと声を漏らした。
それは彼女が集中すればするほどに鮮明さを増していき、やがて靄の中にごく短い細い線が一本走っていることにも気づいた。その線は、画面の外へと繋がっており、仁王は恐らくこれを視認していたのだろう。
「まさかとは思うけど影喰かも。仁王くんはこれに気付いてた?」
仁王からは、魂魄炎と同様に影喰も映像媒体に映り込むケースは殆どないと聞いていただけに、偶然とはいえこうして記録されていたことに驚きを隠せなかった。
藤ヶ谷自身は特に霊感の類はないらしいが、撮影した写真に魂魄炎が映り込んでいたように、もしかすると彼女はそういった類のものに敏感なのかもしれない。
何度か動画をフレームをずらして確認してみるも、影喰が映り込んだのはこの一瞬限りで、それ以上確認出来た場面はなかったが、影喰いがいたということは、やはり山犬はジョーカーの手によって操られていた線が濃厚になった。
ただ、仁王はなぜあの時それを口にしなかったのだろうかという疑問が新たに浮かんでくる。彼ならその場で影喰に対抗することが可能なはずだ。
確かに、事の発端を全く知らない佐竹や浦山もこの場はいたが、それを差し引いても影喰に対策を講じる方が、結果としてジョーカーに影響を与える効果があるのは明らかだ。少なくとも仁王であれば、間違いなくそれを選ぶのは容易に想像がつく。
結局、この場であれこれ考えても仕方がないと唯は区切りをつけ動画を閉じようとした。そして、彼女はぎくりとしてその手を止める。
まさかと思ってもう一度動画を辿ると、唯の違和感が確信に変わっていく。
「え? これってどういうこと? 彼にも影喰が視えてるってこと?」
停止したその場面では、仁王と同じ場所へと彼もまた視線を向けていた。
一刻も早くこのことを仁王に伝えなければと、唯は鳴り響く呼び出し音をそわそわしながら聴いていた。
同じ動画を仁王も持っているはずであり、彼もとうに気が付いているかもしれないが、唯にはあまりにも彼に話したいことも聞きたいことも多くあった。
彼女のはやる気持ちとは裏腹に、一向に仁王が電話に出る様子はない。彼女はそれでも電話を切らず、壁の時計へと目をやった。もうすぐ十九時になろうとしていた。
「今ならまだ……仁王くんの家に行こう」
それは唯にとって初めての決断だった。もちろん唯自身は全く自覚がなかったのだが、そこからの彼女の行動は早かった。
この時間帯には滅多に家を出ることのない、そんな娘の姿を玄関先で見た母親は何事かと驚いていたが、唯は咄嗟に藤ヶ谷に会ってくると告げた。
これもまた、唯にとって初めて親についた嘘であったが、母親はそれを知ってか知らずか、帰りが遅くならないことと電話を定期的にするようにとだけ言って彼女を送り出した。