
ペンションの裏手には、そこそこの広さの家庭菜園用の畑と花壇が広がっていた。
そのままアトリエへの方へ向かうにつれ、地面は下へ向かって緩やかな傾斜になっている。これは、建物内の渡り廊下を彼女が歩いていた時には全く感じなかった点だ。
元々の地盤自体が下がっているのか、あるいはペンションに合わせてわざわざ切り出したのか分からないが、いずれにせよアトリエ側は相当手を加えているようだった。
やがて、アトリエの丁度窓の下あたりに彼女が辿り着くと、地面から窓の高さまでおおよそ五メートルほどの差があった。そして、彼女が立つ周囲には三メートルほどの木が林立している。
更に窓と並行して進むその先は崖になっており、転落防止用のフェンスが張ってあるのが見えた。
アトリエの室内から見ただけでは、今彼女が立つ場所の周辺は若干の死角になっており、こうしてわざわざ足を運ばない限り、視認することはまず難しいのだろう。
唯はポケットから慎重にハンカチを取り出す。広げると中には少しばかり萎びて茶色に変色した一枚の葉が挟まれていた。
彼女はしゃがみ込むと、近くに落ちていた葉を摘み上げ、それと見比べる。
「やっぱり」
相違ないことを確認した唯は、昨日意識を戻した瞬間に佐竹が口走った言葉を思い出していた。
彼女はもう一度窓のある場所を見上げる。
あの窓は嵌め殺しになっており、内外から開閉することは出来ないはずだ。だが、彼は、確かにあの場所から落ちたと言っていた。
だが、完全に意識を取り戻した佐竹に唯がいくら尋ねても、彼は言葉を濁すばりで、結局そればかりではなく彼が呼び出したそもそもの理由についてすら知ることが出来なかったのだ。
(佐竹くんのあの擦り傷は、きっとここに落ちた時に付いたんだ)
断定するにはあまりに心もとないが、彼のあの様子から察するに疑う余地はないだろう。
そして、どうやら佐竹は、負った傷のことを他の誰にも話していないらしい。
確かに頬に付いた傷は浅く、細く走った血さえ拭ってしまえば、注視しなければ分からない程度のものだった。
――佐竹くんもおめでとうございます。受賞出来ると良いですね。
ちらちらと浮かぶ言葉を唯は振り切るように頭を振る。
確かに仁王にカードの存在について報告するとは決めたが、それはあくまで心内でのことだ。まだ誰かに一言も話してなどいない。
けれど、これではまるで、図ったかのようなタイミングで起きたとしか彼女には感じられなかった。
佐竹の怪我は些細なもので大事には至ってないにしろ、二度目があるとすれば、ジョーカーも本気を出してくるかもしれない。
唯は腕時計に視線を落とした。ここを訪れてから思ったよりも時間が経過している。
皆の輪から上手く抜け出してきたつもりだが、あまりに過ぎれば佐竹や他の人間に心配をかけてしまうのは避けられない。
唯は小さくため息をつくと、ペンションに戻るべく歩き出した。
唯がペンションに戻ると、玄関ホールのところで切原と国舘が立ち話をしていた。
どうやらテニス部は、一旦練習を切り上げて戻ってきているようだ。
二人ともやけに土まみれで、それだけで相当な練習をしてきたのだと言うのが唯にもすぐ分かった。
「あれ? 無川先輩、外に出てたんスか? 一人は危ないっすよ」
「はい。ここの裏にある菜園と花壇のスケッチしにちょっとだけ」
そう言って唯がスケッチブックを切原に渡せば、彼はあぁと頷いてそれを受け取る。
彼は軽く中に描かれた絵を眺め、礼を言って彼女へと返した。
山犬の件があってから、出来るだけ単独行動をしないように努めると言うのは、全員の中で暗黙のルールになっていた。
「そう言えば、どこに行ったんでしょうね。もう一匹のヤツ。まだ森の中にいるのかな?」
国舘が窓から見える森の様子を見てぽつりと呟くと、右目をジャージの袖で擦った。
あれから誰もあの山犬の姿を見ておらず、また叔父からもそういった獣が出た類の話もされていない。もし、あの山犬が他の人間を襲ったとなれば、相当の騒ぎになるのは明らかだ。
唯は何となくそうはならないだろうと感じていた。
騒ぎが大きくなればなるほど、ジョーカーはかえって動き難くなるはずだ。あの仁王や幸村ですら、まだテニス部の内側で留めておいて構わないと判断をする今くらいの牽制が、きっとちょうど良いのだろう。
「出てこないなら出てこないで良いけどさ。やっぱちょっとは気になるよな」
切原もそれに同意して、盛大にため息をついた。
もし山犬が再び姿を見せる機会があれば、残された時間はあまりないはずだ。さすがに山を下りてまで追従してくるとは思えない。
「ねぇ。唯」
少し離れた場所から響いた声に、唯が顔を向ける。階段の上の方から藤ヶ谷が彼女の名前を呼んでいた。
どうしたのかと言葉を返せば、彼女はちょっと来て欲しいとだけ言って、すぐに背を向けてしまう。
唯は首を傾げながらも、切原たちと別れると階段を駆け上がった。