
夕日が、山の頂へ今まさに落ちようとしている。
窓硝子越しに室内へ注いでくる光が、彼の黒く伸びた影以外の部屋の隅々を赤く染め上げていた。
合宿は明日の夜までまだ続くとはいえ、実質これが彼が見る最後の夕焼けになるのだろう。
その呼吸すら忘れてしまう光景を一人眺めていた佐竹は、思い出したように携帯電話を確認する。唯との待ち合わせまであと十五分ほどあった。
彼の表情が晴れないのは、決して周囲の明度のためだけではなかった。
「無川先輩、これ、一体どういう意味なんですか」
そう呟く彼の手には、一枚のトランプのカードが握られている。
プラスチックの材質で出来たそれの表面は、やけに陽光を反射した。
そのまま佐竹は、綴られた文面に視線を落とす。
『無川唯が絵画展に絵を出せなくなったのは、仁王雅治が原因です。』
彼の元に届いた差出人不明のカードは、ハートのジャックだった。
文面もさることながら、彼のその二つの顔は、青く塗りつぶされている。佐竹はその染料が油絵の具であるとすぐに気が付いていた。
「確かにずっと気持ち悪いこと起きてるし。でも、俺だってさすがに確証もなく仁王先輩を責めたりなんて出来ねぇよ。マジもう訳分かんねぇ。何なんだよこのトランプ」
佐竹は乱暴にカードをポケットに押し込むと、彼は足早に窓の側へと寄った。
(でも、これがもし本当だったら? そうだよ。テニス部にさえ関わってなければ、合宿なんて最初から参加してないし、テニス部が美術室に出入りすることもなかった。そもそもの始まりは横断幕だよな……あれ?)
そこで思い出したように佐竹は首を捻った。
「そう言えば、確かに俺は生徒会からの横断幕がきっかけだったけど、無川部長はそうじゃないっぽかったよな? それよりも前から何か訳有りって感じしてた。あ、でも無川部長は仁王先輩と丸井先輩と同じクラスだし、顔見知りでも全然おかしくないよな……でも」
釈然としない表情を貼りつけた佐竹の顔が、窓硝子に映り込んでいる。
(そうだったとしても、無川部長とあの二人が元々仲良さそうには見えないな。無川部長とは合わないだろうし。だったら、やっぱり何かがあったとしか。あーそれ聞いたって、あの人が簡単に教えてくれるとも思えないや)
佐竹は目の前に広がる夕焼けに目を向けた。
赤々と煌く熱を持った光が、彼の網膜を淡く焼いていく。
「……呼び出したのは完全にしくったかも。こんなの見せたら、余計に無川部長は何も喋んなくなる」
彼の結論が静かに木霊した。
気を取り直した彼は、カードを取り出すとその表面をじっと見つめた。それから絵柄を内側にしっかりと二つに折り畳み、再びポケットの奥へと押し込む。
室内はまるで燃え上がっているかのようだった。彼は、もう一度顔を上げた。
本当にこの場所から見る夕焼けは形容しがたいものがある。きっと、世界の終わりはこういう感じなのかもしれないと、そんなことが佐竹の頭を過ぎった。
ゆっくりと山の裾野に落ちていく光を眺めていた佐竹は、出来るだけ近くでそれを見ようと、硝子に手を突くべく伸ばした。
「……え?」
佐竹の手は、するりと空を切る。
彼が上げた疑問の声は、そのまま仄暗い色の中へと吸い込まれていった。
約束の時間に僅かばかり遅れてしまったと、息を弾ませたまま唯はアトリエの中へ足を踏み入れた。
照明の代わりに夕焼け色に染まった室内は、どこかノスタルジックな感傷を彼女に抱かせる。
赤と黒の境界線がはっきりとしている中、唯は佐竹の姿をすぐに見つけることが出来なかった。
「佐竹くん……?」
彼の姿がないことに、彼女はより明るいところへと窓の方へ近寄っていく。
そして、その姿を見つけた。
「佐竹くん!」
慌てて床に倒れている佐竹に駆け寄った唯は、彼の頬に小さく擦った跡があることに気づき青褪めた。
目に見えないところに怪我をしているかもしれない。誰かを呼びに行かなくてはと彼女が立ち上がりかけたところで、彼の小さな呻き声を聞き、唯は彼へと向き直る。
佐竹は眉間に深く皺を寄せたかと思うと、ゆっくりと目を開いた。
「無川、ぶちょ、う?」
「佐竹くん大丈夫ですか。一体何が……」
「あ……お、俺、窓、落ちて……」
「窓? あっ!?」
突然起き上がった佐竹が頭を抱えて蹲る。その彼の手にも同様に擦った跡があり、更に彼の背中には、数枚の葉が絡み付いていた。
唯は咄嗟に佐竹に気付かれないようにその内の一枚を手に取ると、素早くポケットに滑り込ませる。
「何でもないです。俺なら大丈夫です。気にしないでください」
「気にしないでって言っても……」
「そんなことより、この合宿が終わったら、どんな形でももうテニス部に関わるのは止めましょう」
「佐竹くん。急にどうしたんですか? やっぱり」
「お願いです。お願いだから。もう、マジで止めてくれ」
佐竹の狼狽ぶりに、唯もそれ以上、彼に何があったのか尋ねることなど出来なかった。