
こんなに短期間に連続して例の夢を見るのは彼女にとって初めてのことだった。
唯は椅子の上に座っていた。目の前にいつもかかっている額は、床に落ちて粉々に割れている。
夢の内容が継続しているという事実は、少なからずとも彼女を酷く動揺させた。
これまでと違っている点の一つに、全身を包み込む異様な気怠さがあげられる。彼女が深く息を吐きながら椅子に凭れ掛かれば、自然と天井を仰ぐ格好になった。
暗い部屋の四方の壁は、真っ黒に塗り潰されていた。と言っても、そもそも部屋の明度自体があまりないため、黒と表現したものの、本来の壁の色がどのようであるのか推測するのも難しい。
それでも、彼女は今目の前に広がる天井の色が黒だと心のどこかで確信していた。どこまでも広がる深淵を見つめていると、まるで吸い込まれそうな感覚に陥り、彼女はそこから視線を戻す。
オルゴールの音は聴こえない。静まり返った奇妙な無音の空間に、唯は耳鳴りを覚えた。
やはりいつもと状況が全く違うと、唯が身体を捻って周囲を見渡すと、彼女の丁度真後ろの壁際に細い光が落ちていることに気が付いた。咄嗟に視線を上げれば、小さな白い渦がゆっくりと反時計回りに巻いている。
そして今度は、その光の筋をなぞって視線を下げていく。
辿り着いた先には、光に照らされて小さな木製の箱が転がっていた。そばには外れてしまった箱の蓋の残骸らしきものもある。
見ただけで、それがオルゴールであると唯が思った瞬間、すぐにでも拾わなければならないという強い衝動に駆られて、彼女は椅子から立ち上がろうとした。
ところが、彼女の両の足はぴったりと地面に吸い付いたままで立ち上がることすら出来ない。驚いて膝の方を向いた瞬間、唯は今度こそ衝撃で全身が凍りついた。
彼女の両膝の上に黒い手が乗っている。質量も温度も何もないがやけに骨ばって見えるそれは、膝下の床から伸び上がり、彼女の膝で手首をくの字に曲げる形でべたりと広がっている。ぴくりとも黒い手は動かないが、彼女の行動を妨げているのは明らかだった。
ふいに彼女の耳元を生温い風が撫で上げた。
それは人の吐息にも似ていて、唯の呼吸は自然と上がるが相変わらず身じろぎすらかなわない。それでも眼球だけは動かすことが出来た彼女は、向いてはいけないと抵抗する意識とは反対に、左へ左へとゆっくり視線を動かした。
そして、唯はその『顔』を確かに見た気がした。
ところが、彼女の視界を覆ったのは、ばちりと爆ぜるような白い闇で、その中心へ向かって急速に意識が引きずられていく。それと同時に、手足の束縛が溶けた。
唯は、必死にオルゴールが落ちている方へと手を伸ばした。そんな彼女の指に”何か”が絡みつく。
一転して今度は黒く染まっていく中、それでも唯は、きっと自分はあのトランプのことを仁王に話すべきなのだと、なぜかそう唐突に理解していた。
合宿三日目の朝もとても良く晴れていた。
予定していたスケジュールが相当ずれ込んでいる兼ね合いもあり、本来であれば明日の昼過ぎを目途に解散するはずだったのだが、少しでも補てんするためにと夜まで延長することが昨晩の内に決まった。
先日山犬に襲われたあの小屋の周辺以外で、テニス部の練習場所として適当なところはなく、結局本日の練習は叔父と小屋の修理業者が付き添いのもと行われることになった。
小屋の窓はともかくとして、扉に関しては、到底犬が破壊したとは考えられないほどの損傷具合だったが、その辺りは相変わらず柳が上手く説明したらしく、未だに叔父はただの野良犬の仕業だと信じているようだ。
叔母も所用のため一時的にペンションを離れており、必然的に唯ト佐竹もテニス部に同行することとなった。
二人でベンチに並んで座り、いつものよう鉛筆を走らせる。
夏休みの開始に合わせて購入した彼女のスケッチブックも既に折り返しを過ぎており、この分なら夏の終わりには二冊目に入ることになるだろう。
「無川部長」
「はい」
「ちょっと、聞きたいことがあるんですけど、あとで時間もらっても良いですか?」
「? 今じゃ駄目なんですか?」
「あ……まぁ、一応。すいません」
「分かりました。じゃあ、丁度良いからアトリエで話しましょうか」
その時、唯のすぐ近くからシャッター音が聞こえてきた。藤ヶ谷だ。
どうやら彼女には、先の二人の会話は聞こえていなかったらしい。
「あれ? 今までどこ居たんですか? 藤ヶ谷先輩」
「んー。小屋の修理見てきたの」
藤ヶ谷はそう言うとベンチに腰を下ろし、疲れた顔で額の汗を拭った。
彼女は二人にも見える角度にカメラのディスプレイを傾けると、撮影してきたばかりの小屋の様子を見せてくれた。扉も窓も何事もなかったかのように元通りになっている。
作業の内容を笑いながら話す藤ヶ谷は、昨夜の様子を微塵も感じさせなかった。