
二十時を過ぎた頃になって、真田と鷹敷はペンションに戻ってきた。
先に電話で報告があった通り、感染症の類にも幸い罹っておらず、特に真田は、怪我自体も軽度であり今後の試合に影響を及ぼす可能性もなかった。
それでも叔父からは、改めて合宿の中止について提言されたが、それを頑として断ったのは幸村だ。
山岳での訓練が、レギュラーたちにとって得るものが多くあることを身をもって経験しているからだろう。彼は、叔父との会話の最後まで 今も森に潜伏していると予想されるもう一匹の山犬の存在を伏せていた。
静かに響いたノックの音に、柳は部誌の記入の手を止めて顔を上げた。そのまま短く返事をすれば、名乗った鷹敷が出来るだけ音を立てないようにしながら室内へと入ってくる。
彼は入るなり室内を見回し、切原の姿がないことを確認した。
柳が、入れ違いで一階にいる国舘と会っているはずだと説明すれば、安心したように一息つく。
「一弥、どうした? そんな深刻そうな顔をして。傷の具合は大丈夫なのか?」
「え、えぇ。全く痛みがないといったら嘘になりますが、大丈夫です……」
それっきり黙り込んでしまった鷹敷を見て、柳は立ち上がると廊下に人の気配がないことを確認してから扉の鍵をかけた。そして、窓際にある椅子へと腰を下ろす。鷹敷もそれに続いた。
柳は特別催促するわけでもなく、黙って彼が切り出すのを待っていた。鷹敷はしばらく葛藤する様子を見せていたが、やがて意を決したようにポケットからハンカチを取り出すと、それを机の上に置く。
柳の興味がそれに注がれたことを合図に、鷹敷がゆっくりとハンカチの縁を持ち上げた。
「……これは、トランプか?」
青地のカードを見下ろして、柳が思わず疑問をそのまま口にする。
鷹敷はそれに指を添えた状態のまま切り出した。
「蓮二にちょっとこれを見てもらいたくて」
「一体これがどうしたと言うんだ」
「それが、実は……」
彼の指先が机を滑り、伏せられたカードを裏返した。それを見た柳の目が見開かれる。
『白灰色の牙は、小さな鷹の翼を噛み千切るでしょう。』
スペードのキングの上にはシールが張られ、小さな文字でそう書き込まれている。
柳は、文面から目を逸らさないまま、呻くように尋ねた。
「一弥、これをどこで」
「今朝、僕が起きた時に、ドアの所へ挟まっていたんです。ずっと誰かの性質の悪い悪戯だとばかり思っていたので、騒ぎ立てるのもどうかと黙っていました。けれど、あの小屋で山犬を見た時にこのカードの意味が分かったような気がして……」
「誰か他にも見せたのか?」
「いえ。真田くんは勿論ですが、幸村くんにもどうしても話し難くて。でも、こんな状況ですし、蓮二にだけは伝えておいた方が良いかと思ったんです」
柳の指がカードを掬い上げる。
裏表と調べてみるも、何の変哲もないただのトランプの一枚であると結論付けた柳は、更なる疑問を口にした。
「一弥が見つけたのは、これ一枚だけなのか?」
「えぇ。でも、わざわざトランプにこんなメッセージを添えるなんて、何だか気味が悪いなとは感じてます。もしかして、蓮二も持っているんですか?」
「いや、俺はない。だが、お前が言うようにわざわざトランプを使っているなら、他にも同じように持っている人間が他にいてもおかしくないだろう」
「それは、確かに」
「一弥、これは俺が一旦預かるぞ」
「はい、もし必要ならそうして下さい。すみません。二人にこのことを話すのかについての判断も蓮二にお任せして良いですか?」
「あぁ、分かった」
誰かに話したことでようやく気持ちが軽くなったのか、鷹敷の表情が和らぐ。
柳は、カードをしばらく眺めていたが、やがて部誌の側に置いておいた自身の手帳の間にそれを挟んだ。
「のう。柳生」
ベッドの上でぼんやりと天井を仰いでいた仁王が、急に姿勢を横向きに変えると口を開く。
それまで室内は張りつめた沈黙で満たされていたため、彼の視線の先にいる柳生が言葉を発するまで少しの時間を要した。
「仁王くん、どうかしましたか?」
「お前さん、幸村から預かったものがあるはずじゃろ」
「……それは、ここで話すべきことではないと思いますが」
「分かっとるぜよ。念のための確認じゃ」
仁王が身体を起こして、今度こそしっかりと柳生を見据える。
鷹敷から受け取っていたデータの整理を行ってた柳生は、呆れたようにため息を一つ零すと、息を殺してそれに答えた。
「勿論、持ってきていません。合宿が終わったら、仁王くんにお渡しします。幸村くんともそう約束していますし」
「俺は本当に信用ないみたいじゃのう」
「それは仁王くんが、きちんと初めから全てを幸村くんに話していなかったのにも原因があるでしょう?」
「やれやれ。柳生も相変わらず手厳しいぜよ。とりあえず、それまでは気を付けんしゃい」
再び仁王がベッドの上に転がれば、そこで二人の短い会話は打ち切られた。