
割れた硝子片が床で踊る。
耳障りな音を奏でるそれを踏みしめて立ち上がったのは、新たなもう一匹の山犬だった。
一声嘶き大きく身震いをすれば、最初の山犬とそっくり同じ色をした毛は逆立ち、一回り以上もその身体を大きく見せる。
まずいと誰かが呟いた。
「もう一匹!? もしかすると群れでいるのかもしれません」
冷静な中にも緊張を滲ませた声で柳生は仁王を見た。
彼はただ首を横に振る。
「外に逃げるのはもっと危険じゃ。こんな奴に囲まれでもしたら、怪我じゃすまないぜよ」
山犬がやはり白く濁った瞳をぐるりと回して周囲の様子を探る。ぱりんと硝子が踏み割れる音が響いた。
やがて、不安定に揺れる視線が、唯と藤ヶ谷の姿をとらえた瞬間に一変する。
膨らんだ毛が静かに沈んでいき、本来の躯体が露わになれば、それは先の山犬よりも随分と引き締まっており。また年も幾分か若いように見えた。
唯と目を合わせたまま、山犬はゆっくりと背を低くし、彼女に向かって飛びかかるべく姿勢をとる。
「あいつ、人の顔の見分けがつくのか」
山犬は、明らかにこの中で弱者にあたる者を選別していた。
ジャッカルが驚きに声を漏らし、佐竹が唯と藤ヶ谷の前に立ちはだかる。だが、彼は真田のように山犬に対して何か対抗出来るものなど手にしておらず、真田も未だにもう一匹の山犬に抑え込まれたままだ。
このままでは、状況は益々悪化の一途を辿るばかりだった。
真田ですら、圧し掛かられてしまえば振り解くのは容易でない。それが唯たちであれば尚のことだろう。
だが、下手に動き出そうものなら、山犬への挑発ともなりかねない。完全な四面楚歌の状況に、とうとう一人が耐え切れなくなり、叫び声を上げると突然走り出した。
「あ、おい! 浦山!」
佐竹が伸ばした腕は、浦山を掴み損ねて空を切る。彼はしまったという顔をして後を追おうとしたが、低い唸り声にぎくりと身体を強張らせた。
完全にパニック状態へ陥ってしまったらしい浦山は、そのまま小屋の外へと出て行ってしまう。
その様子を見ていた顔をこれでもかと蒼白に染めた鷹敷が、浦山の名前を呼びながら後に続けば、二匹の山犬は突然威嚇を止める。そして今度は、二人を標的に切り替えたのか、他の者には目もくれず駆け出していく。
「ヤバい! 鷹敷先輩まで!」
人と山犬の足では、圧倒的に後者の方に分があるのは、誰の目にも明らかだ。
舌打ちをした佐竹は、「後追います」と漏らして出て行こうとしたが、それを真田が一喝し引き留める。
「待て、佐竹。無闇に出て行っても霧で迷うだけだ。俺が行く」
ようやく立ち上がった真田の両肩を見て、柳生が表情を険しくした。
芥子色のジャージが赤く滲んでいる。
「真田くん。肩が……」
「問題ない。それよりも浦山と鷹敷の方が心配だ。お前たちはここで待機していろ」
「真田副部長。俺も一緒に行くッス」
いつの間に見つけたのか、切原も火掻き棒を手にして立っていた。
それを見た真田の表情は更に険しくなる。
「駄目だ。俺一人で十分だ。赤也がいてもかえって足手まといになる」
「なら、俺が切原の不足分を補います。いくら真田副部長でも一人でなんて危な過ぎる。でも、その前に手当てが先です」
そう言って国舘は運んできた救急箱を机の上に広げ、消毒液と包帯を取り出した。
柳が交代すると言ってそれを受け取る。
「噛まれなかったのはまだ幸いだ。だが、後でちゃんと検査をしてもらう必要はあるな。弦一郎、俺が代わるか?」
「いや。奴の動きは、思った以上に素早い」
真田の両肩は、爪が深々と食い込んだものから浅く引っ掻いたものまで多数散らばっていた。
特に食い込んだ傷に関しては、今も少量の血が滲んでいたものの、本人は然程気にしていない様子だった。
柳が手早く包帯を巻く様を眺めていた真田だったが、切原をちらりと見たかと思うと強く首を横に振る。
「もしあの犬に囲まれたらどうするんスか。俺と国舘で真田副部長をカバーします」
「霧で散り散りにでもなれば、余計に危険が増すだけだ。時間がない。お前たちもここにいろ」
「でも……!」
切原がびくりと肩を揺らした。眼前の真田が、それ以上の議論は不要だと言わんばかりに、彼をきつく睨み返していたためだ。
それでも彼も引く様子はなく、もう一度真田に着いていく意向を口にする。
「何度も言わせるな……それに、あれはただの犬ではないのかもしれん」
真田が手の中の火掻き棒に視線を落とす。その声は、彼らしくない困惑を孕んでいた。
「弦一郎。どういう意味だい?」
幸村もまた、足元に散らばる硝子片を見つめたまま尋ねた。
「さっき殴り飛ばした時の手ごたえがおかしかった。急所の狙いは外さなかったはずだ。だが、あんな俊敏に動けるのはなぜだ? 第一、これにも全く血が付いていない……」
「真田」
ふいに仁王が真田を呼んだ。
ふつりと会話が途切れ、真田が仁王へと視線を寄せる。
互いに視線が絡んだが、仁王はそれ以上何も発言をせず黙っていた。ややあって、真田が先に目を伏せると口を開く。
「精市、蓮二。すまないが、ここを頼む。赤也、国舘は絶対に俺からはぐれるな。いいな?」
その言葉に幸村と柳は頷くと、三人は浦山と鷹敷を追うべく小屋の外へと飛び出した。