
どうやら情報通の藤ヶ谷ですら、佐竹の件だけではなく仁王の退部についても何も知らないようだった。
そもそも仁王の話も、レギュラーと鷹敷、そして唯しか知らない。
国舘がレギュラーに昇格することは、先日テニス部の全体ミーティングにおいて幸村から正式に発表されたが、皆、彼の実力について十分に理解していたため、そこまで部内に衝撃を与えるものではなかった。
だが、仁王については話が全く別だ。彼の退部の意志をこのタイミングで発表すれば、レギュラーはともかくとして、部全体の士気が下がることはどうしても避けられない。
その考えのもと、幸村はこの件についてレギュラー達にはかん口令を敷き、他の部員には、あくまで仁王はレギュラーのまま全国大会は補欠で参加するという周知に留めていた。
アトリエでしばらく藤ヶ谷と話していた唯と佐竹だったが、やはり叔父夫婦の手伝いをした方がいいだろうという結論に至り、三人はキッチンへと向かうことにした。
キッチンへ訪れると、叔母がちょうど昼食の準備をしていたところで、唯たちは手伝いを申し出て準備を始め、それが滞りなく終わった頃にレギュラーたちが戻ってきた。
見慣れた面々が姿を見せる中、一番最後に室内へと入ってきたのは仁王だった。
彼は唯たちにもさして興味を示さずに、着替えるために二階へと上がっていく。
(仁王くん、何だかんだで合宿に参加しているのに、本当にテニス部辞めちゃうのかな)
仁王の後姿を見つめながら、唯は思わず心の中でそう呟いていた。
切原から話を聞いた直後から、唯も何度かメールや電話をしていたが、そのどれもに仁王からの返事はなく、彼の真意の断片すら本人以外は分からない。
やがて、着替えを終えたレギュラーたちがダイニングに集まり始め、唯は佐竹と藤ヶ谷の向かい側へと座る。
もれなく仁王も戻ってくると、比較的唯に近い場所へ腰を下ろす。他の人に気付かれないよう、彼女は彼の様子を窺ってみたが、変わらず一仁王が唯を見ることはなかった。
仁王の相部屋の相手は柳生だった。
全国大会のオーダーとして、ほぼ確定となっている柳生と国舘のダブルスの件を鑑みれば、柳生の相部屋は国舘である方が適当だというのは、誰が見ても明らかだ。
その疑問を佐竹が漏らした時、背景について教えてくれたのは鷹敷だった。
話によると、柳生との相部屋を断ったのは、他でもない国舘本人らしい。合宿に参加をする仁王に遠慮をしたというのも一つにはあるだろうが、それよりも、レギュラーとしての経験が皆無である国舘が、レギュラーたちや他校選手の過去のデータ―の学習も含め、鷹敷との相部屋を望んだのだ。
「無川先輩。お疲れ様ッス」
呼びかけられて、唯がはっとして声の方を見れば、少しだけ疲れを滲ませた切原が立っていた。
彼は彼女の向かいの席へ腰を下ろすと、コップに注がれた水を一息に煽る。そしてそのままテーブルの上にうつ伏せになり大きく息を吐く。
性格がどこか似ているせいなのか、佐竹と切原の折り合いは相変わらずあまり良いとは言えない。唯は咄嗟に隣に座っている佐竹を視線だけで見たが、特に構えている様子はなかった。
曲がりなりにもテニス部に招かれているという立場なのだと自覚があるのだろうか。少なくとも、この場でさざ波を立てるような真似をするつもりはないらしい。
皮肉なきっかけではあるが、仁王の退部騒動の影響で再び唯と切原との交流が回復した。彼から聞いた話では、国舘は今も自身のレギュラー昇格を心から喜んで良いのか迷っているらしい。
国舘は、仮にも数多くの部員の中から準レギュラーになれるほど、技術面では見込まれている人間だ。今回のことは、彼自身には何も落ち度はない。この結果もこれまでの積み重ねてきた一つの結果が引き寄せたものだと考えても全くおかしくはないのだ。
「唯さんに佐竹くん、お疲れ様。来てくれてありがとう」
唯の姿を見つけた幸村が、二人の近くへ寄り笑顔を見せて声をかける。彼もまたこの合宿から本格的に練習を始めている。
国舘がダイニングに姿を見せた。彼は切原の近くに向おうとしたが、仁王の姿を見つけ足を止めた。そんな国舘を幸村が手招きをすれば、彼は戸惑ったような表情を一瞬浮かべものの、すぐにこちらへとやってくる。
やがて唯たちの近くで、二人は話し始めた。
「……何て言うか、これってすごく微妙じゃないですか?」
小声で唯に耳打ちをしてきた佐竹に、彼女も頷く。
幸村のすぐ斜め向かい側には仁王が座っている。それは国舘との会話も聞こうと思えが十分聞こえる距離だ。
周りのレギュラーたちもその空気感には気付いているのだが、あえて口に出す者はいなかった。
「それにしても、国舘くんがレギュラー昇格で、仁王くんが控えとはね。意外だわ」
そんな中、通る声で藤ヶ谷が漏らせば、切原があっけにとられたような顔をして彼女を見る。
彼女はそんな彼の視線ものともせず、幸村と国舘にファインダーを合わせた。
シャッター音と重なる形で切原が呟く。
「さーすが、藤ヶ谷先輩」