
持て余すほど自身の手の中にあったと思っていた夏休みも、いざ過ぎてしまえば早いもので、気が付けば後半に差し掛かっていた。
唯にとって中学校最後の夏は、どちらかと言えば少々物悲しい出来事が重なり、決して楽しいと表現しうるものではなかったが、そんな中で喜ばしい知らせが彼女の耳に入った。
佐竹が出した絵が、絵画展の選考を通ったのだ。
最終結果については、ちょうどテニス部の全国大会一日目に出る予定だが、彼が切望するように佳作、あるいはそれ以上の賞を受賞する可能性が、これでよりぐっと近づいたことになる。
城咲から電話でその話を聞いた時、唯は先日感じた絵画展に対する激しい心残りよりも、佐竹の躍進を純粋に嬉しく思う感情の方が遥かに上回っていた。
そんな中、佐竹に美術室へと呼び出されたのは、仁王が真田に退部届を提出してから三日目のことだった。
「すみません。休みなのに呼び出したりして」
「ちょうど図書室に用事があったから大丈夫です。それより、絵画展の選考通ったって城咲先生から聞きました。おめでとう」
唯が自分のことのように嬉しげに話すが、一方の佐竹の表情は晴れなかった。
それどころか、絵画展と言うキーワードを出した瞬間に、彼は益々深刻そうな顔になっていく。
どうしたのかと彼女が口を開くのを遮って、佐竹が強い口調で話し始めた。
「俺、全然知りませんでした。何で、何で無川部長は、絵画展にあの絵を出さなかったんですか?」
困惑する唯に対して、佐竹はまるで責め立てるように重ねた。
彼は、彼女の絵に関する事の顛末を一切知らない。
「城咲先生が絵画展に出した書類のコピーを偶然見たんですけど、無川部長だけ名前がなかった。前に見せてもらったあの絵、完成間近だったじゃないですか」
「それは、自分が満足いく出来にどうしてもならなかったから、城咲先生に事情を話して、直前で出すのを止めたんです」
「嘘だ」
佐竹は、城咲が犯人であったことも勿論知らない。
彼女がこの先、彼にその真実を打ち明ける機会もないのだろう。
「無川部長、ホントどうしちゃったんですか? 今学期に入ってから何か変だ。具体的に何がって聞かれたら俺も良く分かんないけど、何かおかしくて、何かが違う」
唯が押し黙ったまま答えないでいると、佐竹はにわかに苛立ちを覚えたようだった。
突然、ばさりと軽い音が響き、彼女が机の上に視線を移す。そこには、彼女が良く見慣れている物があった。
なぜ今ここにと唯が疑問に思うよりも早く、佐竹が畳みかける。
「絵だって今までと違う」
「絵?」
「……もしかして、無川部長気付いていないんですか?」
そう言って佐竹は、先程置いたスケッチブックの表紙を捲る。これは、彼自身のではなく、唯の物だった。
美術部員の中には、普段使っているスケッチブックを準備室にそのまま保管している者も多くいる。彼女ももれなくその一人だった。
「無川部長の最近のスケッチ、どれも人物画だ。今まではずっと得意って言ってた静物画ばっかり描いてたのに。そりゃ今年の課題が自画像だっていうのもあるかも知んないけど、七月からは一枚も描いてない」
話す佐竹の指がスケッチブックを滑る度に、日付が巻き戻っていく。
彼に指摘され、唯は確かに直近で描いた静物画に該当するものは、今は燃え尽きてしまったあの鏡の絵だけだったことに初めて気が付いた。
どうしてだろうと彼女は自問する。自覚は全くなく、また答えも浮かばなかった。
佐竹の言う通り、今年の課題が影響しているのも充分に有り得る話だ。けれど、それ以上に何か唯自身を穿つ何かが、彼の指摘するこの小さな裂け目を抉じ開けようとしていると言うことは理解出来た。
(そう言えば、城咲先生も似たようなこと言ってた……)
自身の絵の質が変わり始めていることを認識した今、これからその穴は確実に広がっていくのだろう。
やがて縁に立つ、唯自身を飲み込むまで。
「やっぱり、テニスが絡むと本当にロクなことがない」
ぼそりと佐竹が漏らしたそんな言葉に、唯ははっとして白昼夢にも似た思考を断ち切った。
ところが何よりも驚いたのは彼自身だったようで、佐竹は大きく頭を左右に振ると、スケッチブックを閉じた。
「すいません。勝手に無川部長のスケッチ盗み見て。俺、こんな話するために、今日呼び出したわけじゃないんです。これ……」
普段通りの調子に戻った佐竹が、スケッチブックの隣にクリアファイルを置いた。
中には何やらプリントされた紙が数枚入っている。
「午前中に柳先輩と偶然会って、これを無川部長にも渡してくれって頼まれたんです。中身見て捨てようかとも思ったけど、一応。テニス部が今週末から強化合宿をやるらしいです」
「強化合宿?」
「はい。レギュラーと一部のマネージャーだけが参加するって言ってました。それも柳先輩の親戚のとこでやるって。何でもそこに小さなアトリエが併設されてるらしくて、横断幕の礼の件も兼ねて、無川部長と俺にも来ないかって」
唯がクリアファイルから紙を引き抜くと、そこには強化合宿に関することが書かれていた。