
二十時過ぎから本格的に降り出した雨は、そこまで強くはないものの今も断続的に降り続いている。
自室で雨音を聴きながら課題に取り組んでいた唯だったが、その手は先程からすっかり止まってしまっていた。
時計の針だけがゆっくりと進む中、一向に頭に入ってこない目の前の設問を読むことすら諦めてノートを閉じれば、見計らったようにネロが彼女の足元に擦り寄った。
唯を見上げて、彼がにゃあと鳴く。珍しく見せるその甘えた姿に、唯は椅子から降りてカーペットの上に座り直した。すぐにネロが彼女の膝の上に飛び乗る。
滑らかな背中を撫でながらベッドに寄り掛かる。どうやら雨は先程よりもずっと強くなっているらしい。
幸村が退院すれば、テニス部は本格的に全国大会の最終調整に入るのだろう。
唯の夏は既に終わってしまったが、彼らにとってはこれからが本番だ。
とても不思議な感覚だと彼女は思った。
あれほど仕方がないと理解していた絵画展への出展が出来なくなったことについて、今更になって酷く口惜しく感じられるようになっていたのだ。
もちろん彼女は今も城咲を恨んでなどいない。打ち明けられた言葉は本心であったのだろう。だが、彼は間違ってもそれを実際に行動に移すような人ではない。城咲もまた唯と同じ絵を愛する一人の人間なのだ。
そんな唯でも容易に抱くであろう城咲の闇とも呼べる部分をわざわざ抉り出し弄んだのは、他ならぬジョーカーだ。
同じくして藤ヶ谷もまた、自身が愛するものによって傷を負わされた。
こっくりさんによって、レギュラーたちだけではなく、唯の与り知らぬところで苦しめられた人たちもきっといるだろう。
唯は初めて心からジョーカーを許せないと思った。自分の絵が裂かれた時よりも強く、強く。
このまま放っておけば、いずれはもっと多くの人を巻き込んで取り返しのつかないことになるかもしれない。その前に、何としてもジョーカーを止めなければ。
ネロを撫でる唯の手が止まったが、抗議の声が返ってくることはなく、彼は既に小さな寝息を立てていた。
ふいに階下からインターホンの音が彼女の耳を掠めた。
父親の帰りはまだ先なはずだと思っていると、今度は階段を上ってくる足音が響き唯の部屋の前で止まる。ノックの音に答えると、戸惑ったような表情を浮かべた母親が顔を覗かせた。
「ねぇ、唯。あなたの後輩だって男の子が来てるんだけど。切原くんって子」
「え? 切原くんが?」
思わず腰を浮かせると、膝の上で丸まっていたネロが素早く身を起こし、一延びしてから部屋を飛び出していく。
慌ててネロを追いかけて彼女が階段を駆け下りていくと、玄関先に切原が立っていた。雨で彼の肩や髪はしっとりと濡れている。
「き、切原くん。どうしたんですか。こんな時間に。よく私の家が分かりましたね」
「柳生先輩から、無川先輩の住所聞いたッス」
「このままじゃ風邪ひきます。とりあえず中に入って下さい」
母親がタオルを片手に二人のもとへやってくる。
切原は掠れた声で「お邪魔します」と呟き、唯の家に上がった。
唯が切原と会話を交わすのは、関東大会の決勝戦以来久しぶりのことだった。と言っても今の状況は以前のように明るいものではなく、リビングのソファーに座る彼は、ハンドタオルを頭から被り、先程からずっと黙り込んだままだ。
彼の濡れた制服とネクタイは、先程母親が乾かすために持っていってしまい切原はカッターシャツ姿だった。それも肩の辺りは十分に湿っていたが、彼はそのままで大丈夫だと脱ぐことを拒んだ。
そんな俯き加減の切原の足元にはネロが座り込んでおり、不思議なものをみるように蜂蜜色の瞳で彼をじっと見上げている。
ネロでなくとも切原の様子が一見しておかしいのは明らかだった。
目の前に置かれた紅茶に彼は一切手を付けず、顔はにわかに緊張しているのか強張っている。それは、この部屋へ足を踏み入れた時から変わらなかった。
「切原くん。寒くないですか?」
唯の遠慮がちな声に、切原は無言で首を縦に振った。
彼女が困惑して次の言葉を発せないでいると、しびれを切らしたのかネロが鳴き声を上げる。
彼はその様子を少し眺めると、ようやく目の前のティーカップを手に取った。
そのまま口にするわけではないが、両手でティーカップを包み込み熱を味わう彼の姿に、彼女はほっと胸を撫で下ろす。
「何かあったんですか?」
見計らって唯がもう一度尋ねれば、今度は切原が「うん」と言葉を発して返してくる。
一体何だろうと彼女が続きを待っていると、彼はティーカップをテーブルの上に戻して短く息を吐いた。
「今日、部活の終わりのレギュラーミーティングで、突然仁王先輩がテニス部を辞めるって退部届を真田副部長に渡したんだ」
切原のそんな消え入りそうな声に、唯は酷く驚いて思わずティーカップを取り落としそうになった。