
幸村の退院が金曜日と決まり、いよいよあと二日と迫っていた。
全国大会まで残り約二週間、幸村の最終調整が危ぶまれるところではあるが、本人も周りも心配している様子は少しもなかった。
あのリハビリ階での出来事以来、唯たちの間では幸村のリハビリの進捗状況と実のことについては、暗黙の内に誰も触れなくなっていた。
ただ、先週の日曜日に唯が幸村から聞いた話で気がかりになっていることがある。同日の午前中にふらりと実がやってきて、どうやら幸村が退院する前日にもう一度だけ彼に会いに来ると約束をしたらしい。そして、その日を境に実は一切の姿を見せなくなったのだが、心配しようにも父親の件もあって、実の病室を直接訪ねるわけにもいかなかった。
(実のヤツ。幸村くんにすら本当に会いに来なくなりやがって……)
相手にとって理不尽極まりない感情と理解しつつも苛立ちを感じて、翔太は思わずテニスラケットを強く握り締めた。
高く上った日が肌をじりじりと焼く不快感よりも、腹の底でずっと燻っているこの感情の方がよりずっと強かった。
こんな調子では、彼が毎回楽しみにしている月に二度通っているこのテニススクールも、本日は心から楽しめることが難しいだろう。
「あー兄ちゃんが空いてれば、こっちの練習付き合ってもらうのに!」
「どうしたんだよ翔太。急に大声出してさー」
隣でテニスシューズの紐を結び直していた友人が、驚いたように顔を上げて翔太を見る。
「んーちょっとな」
不機嫌な様子を隠しもしない翔太に、友人はこれ以上彼を刺激しまいと曖昧に返事をしただけだった。
そんな翔太の耳が、すぐ隣で談笑する見知らぬ二人組の会話を捕らえる。
「それにしてもさ。実のことはびっくりしたよな。あいつ、夏休みに入る前に結局学校来なかったし」
ぴくりと翔太の眉が動く。それを彼が爆発寸前の精神状態であると勘違いした友人は、じりと翔太から一歩距離をとった。
隣の二人組は、翔太と同じくらいの年齢に見える。『実』という名前の一致は偶然にしてもタイミングが良過ぎた。益々翔太の耳は、隣の会話に引き寄せられていく。
「俺、あんまりアイツと話したことなかったけどさ。見舞いとか行ってやれば良かったなって思う」
「でも、見舞いとかあいつのとーちゃんが全部断ってたって、かーちゃんが言ってたの聞いた」
「へー」
「な、なぁ。そいつの名前って、もしかして西条実じゃねぇ?」
「うわっ、びっくりした! 誰だよ。お前」
ずいと二人の会話に割り込んできた翔太を不審がった目で見ていた二人だったが、彼の剣幕に思わず互いに顔を見合わせる。
「俺、最近さ、その……実と友達になったばっかなんだけど、実はあいつのことあんまり知らなくて」
「へぇ、アイツ友達いたんだ……つーか、もしかしてお前、知らねぇの?」
再び顔を見合わせた二人は、なぜかその先の言葉を濁す。
そして、互いにお前が言えよと言わんばかりに譲り合っていたが、やがて一人が声の調子を抑えながら重い口を開いた。
「アイツ……先週の土曜に死んだんだよ」
「翔太!」
待ち合わせ場所に指定された公園に息を弾ませて飛び込んできたジャッカルは、ブランコに座っている翔太の姿を見つけると彼に駆け寄った。
青褪めた表情の翔太の隣のブランコには、彼とそっくり同じ顔をした唯も座っていた。
後日の真田の制裁を覚悟の上で部活動の練習を途中で切り上げてきたジャッカルだったが、彼女のその様子に、彼よりも大分先に到着したであろう唯が、既に翔太から事の顛末を聞いていると理解した。
「翔太。電話で少し話は聞いたが、俺にも分かるようにもう一回最初から説明してくれないか?」
しばらく唇を戦慄かせて言葉にならない言葉を口にした翔太だったが、やがてぽつりぽつりと唯にも聞かせた話を繰り返した。
ブランコの支柱に背を預けて聞き入るジャッカルの目は固く閉じられている。
一方の唯は、彼が訪れる少し前に返信されてきた仁王の答えを見つめていた。
『無川にそっちは全部任せる』
仁王はいつだって簡潔だ。けれど、今回はいつもと彼の反応は違っていた。
翔太の話を唯はもれなく送ったつもりだ。なら、彼の話の“決定的な矛盾”にも気づいているはずだ。それは、決して唯だけではなくジャッカルも翔太も気が付いている。
こういった歪みは、否でも応でも一つの結論へと回帰していくのだが、それを踏まえた上でも、仁王は自分ではなく彼女に二度も“全て任せる”と言ったのだ。
(どうして、仁王くん……?)
無川とジャッカルが唯を呼ぶ。
携帯電話を握り締めたままはっとして彼女が顔を上げると、目の前の彼の顔は悲壮に歪んでいた。
そして、それ以上に彼は、認めたくない疑問の答えを唯に求めて言葉を落とす。
「なぁ、日曜日に幸村と話をして、また会う約束までしたっていう実は、一体、誰だったんだ?」