
昨日の晴天はどこへ行ったのか、今日は見渡す限りの厚ぼったい鈍色の空が広がっていた。硝子越しですら雨が降り出しそうな予感を覚えさせるそんな空模様だ。
ノックもなしに訪れた訪問者に、それでも幸村はいつもと変わらない声で語りかけた。
「もう、ここには来ないと思ってた。いらっしゃい。実くん」
実もまたいつものように笑って扉を閉めると、ゆっくりとベッドの側へとやってくる。
「本を返しに来たんだ。幸村お兄ちゃんの言った通り、ちょっと分かんないところがあったけど面白かったよ」
そう言って実は、抱えた本をオーバーテーブルに置くと、壁に立てかけてあるパイプ椅子を広げた。
幸村にも実にも先日の出来事は褪せることなく色濃く焼き付いていたが、二人の間にそれらを感じさせる雰囲気はまるでない。
互いが例の出来事について口を出すことがないと、当然のように理解していたのだ。
「そっか、じゃあ次はどの本にしようか?」
「あのね。もう、お終いにする」
実の言葉に、幸村はベッドから降りかけた姿勢のままで、どうしたのかとでも言いたげに眉を寄せる。
「僕ね。今度違うところに行くんだって。言ってたんだ。だから、もう新しい本を幸村お兄ちゃんからは借りられない」
「そうなんだ。残念だな」
ベッドへと戻った幸村は、言葉の通り残念そうに呟いて眉根を下げる。
実は栞を指先で転がしながら、幸村に向かって疑問を投げかけた。
「確かに最初は僕もどう言ったら良いのか分かんなくて黙っちゃったけど、幸村お兄ちゃんも、ううん、それだけじゃない。ジャッカルお兄ちゃんたちも僕が何の病気なのか、もう全然聞かないね?」
「実くんだって俺の病気のこと、前から詳しく聞かないよね。一緒だよ」
「じゃあ、僕が教えて欲しいって言ったら全部教えてくれる?」
「勿論。知りたいかい?」
幸村の答えに実は酷く安心したように息を吐き目を細めた。それから表情とは裏腹に、首を小さく横に振る。
彼の時折見せるこういった仕草は、彼の年齢に対して分相応だと、これまでも幸村はそう強く感じていたが特に今日は顕著だ。むしろ抑圧していた何かを意図して解放しているようにすら思える。
相反する少年の胎動は、少なからずとも幸村でさえ動揺を禁じ得ない時があった。
誰が切り抜いたのか、空を覆っていた雲と雲の間に不自然にも見える隙間が空いている。耐えかねたように這い出た光が、病室の中にまで飛び込んできた。視界の隅にきらりと突き刺さるものを感じ、反射的に幸村は視線を下げた。
携帯電話に付けられたストラップが、これでもかと煌いている。
これが非常に脆いものであることを幸村は良く知っている。もし床に落ちてしまえば、これはその衝撃で簡単に砕けてしまうのだろう。まるで彼そのもののように。
幸村は眼底に沈むハレーションをより深いところまで引き寄せるために、ひたりと目蓋を閉じてからゆっくりと開いた。
「あんまり種類はないけれど、僕の持ってる本で実くんが欲しいものあるかな?」
彼の言葉に、実が嬉しそうに顔を綻ばせる。じゃあと小さな唇が動いた。
「幸村お兄ちゃんがいつも読んでるその本が欲しいな」
「あ、これかい? でも少し汚いよ」
「ううん。大丈夫」
手渡されたファウストを受け取った実は、すぐにぱらぱらとページを捲る。
そしてあるページに目を留めたあと、長いことそこに並ぶ文字列を見つめていたが、やがて、再び幸村にそれを返してきた。
「どうしたの? 良いのかい?」
「うん。この本は、僕じゃなくて幸村お兄ちゃんに必要だって分かったから。貰えない」
「じゃあ、他の本なら……」
「今度会ったら、その本みたいに僕に似合う本を幸村お兄ちゃんに選んで欲しいな。じゃあ、ばいばい。またね」
がたんと椅子から飛び降りるようにして立ち上がった実に、幸村は咄嗟に答えを返せないまま彼の背中を見送っていた。
やがて、扉へと手を伸ばした彼がふと振り返る。
「……幸村お兄ちゃんは、クラムボンの正体、多分、最初から知ってるよね? どうしてジャッカルお兄ちゃんに教えないの?」
「それも、きっと理由は一緒じゃないかな?」
「そう、だね。そうだったね。ジャッカルお兄ちゃんがもっと知りたがれば、きっと早く教えてくれたんだ」
「……俺もそう思うよ」
ぎらぎらと尖ったような光を宿す実の瞳を見返して、そう言えば丸井からそっくりな飴を貰ったことを幸村は思い出した。
すっかり彼に渡しそびれてしまったと、思わず苦笑を漏らしてキャビネットへと一瞬だけ頭を向ける。そこから取り出すことは容易だが、ここから彼との距離は既に離れ過ぎてしまっていた。
そうして、再び実の方へ視線を戻せば、既に彼の瞳は伏せられており、幸村は残念に思う。
「僕、幸村お兄ちゃんには、やまなしやよだかの星のカワセミでいて欲しい」
「……」
「でも、きっと、最後にはクラムボンが邪魔をする」
抑揚のない実の言葉が散らばれば、後は扉の閉まる音だけが病室の中に静かに響いた。