カレイドスコーピオ

インビジブル

09.関東大会 / 21

 ジャッカルが、実を連れて今から幸村のリハビリを見に行くつもりだと話すと、それを聞いた二人は揃って戸惑った様子を見せたが、すぐに賛同した。
 リハビリ階は、幸村の病室よりずっと上にある。病院やその身内だけではなく看護師の往来も激しく、これまで通りひっそりと行動を起こすのは困難だ。
 この状況で、当人も含めさすがにその提案を口にする者はいなかった。

「あ、そうだ。実くんはお菓子とか食べても大丈夫?」
「え? う、うん」

 がふと思い出したように声を上げ、自身の鞄の中を探り始める。

「良かった。これ、少しだけどどうぞ」

 そう言って、彼女が手の平に乗るほどの小さな桃色の紙袋を実へと差し出す。

「翔太くんも今日ここに来るってメールで聞いて、約束してたクッキーを焼いてきたんです。ジャッカルくんも良かったらどうぞ」
「さんきゅ。っていうか、いつの間にお前らアドレス交換してたんだよ」
「この前の時だよ。ねー?」
「はい」

 実がそっと紙袋の中を覗いて見ると、中には一口サイズの数枚のクッキーが入っていた。
 プレーン生地とココア生地が互い違いに渦を巻いた円形のクッキーで、表面にはうっすらとザラメがまぶしてある。

「わぁ! ありがとう!」

 途端に表情を明るくした実にその場の空気も和らぎ、はほっと胸を撫で下ろす。

「それ、すっごく美味かったぜ」
「楽しみ。ジャッカルお兄ちゃん。先に部屋に戻ってるね。僕、自分で看護師さんにちゃんと言う。少ししたら、十一階のエレベーターのところに来てね」
「分かった。頑張れよ」
「うん」

 そう言って出て行った実を見送ってから、幸村の病室で十分ほど待機していた三人は、やがて実に指示された通りに十一階へと向かった。
 エレベーターを降りてすぐ三人が目にしたのは、車椅子に乗った実と、それを押す女性の看護師の姿だった。
 実はこの上なく満面の笑みを浮かべていたが、一方の看護師の表情はどこか不安げだ。
 そんな彼女が、耳打ちをするように口元を実に寄せる。

「実くん……」
「大丈夫だよ。今日はお父さん病院に来ないから。ね、今日だけお願い。ちょっとだけ幸村お兄ちゃんを見たら帰るから」

 そんなやり取りだけで、実が看護師を半ば押し切った形で許可を取ったというのは明らかだった。
 看護師は困ったような顔を崩さないものの、口元を和らげて三人にも聞こえる声量で口を開く。

「先生からお話があったけど、十分だけね。そしたら病室戻りましょうね」

 実がこくりと頷けば、看護師が車椅子を押し始め、実を先頭にエレベーターへと乗り込んでいく。
 幸村がいるであろうリハビリ階は、最上階の十五階だった。

 十五階の雰囲気は、これまでの病棟階と一線を画していた。
 まず床からして全面フローリング張りであることから始まって、壁に至っては他の階でもお馴染みの手すりの他、更に至る所に補助的な手すりが備え付けられており、角という角には、転倒時のことを考慮してか緩衝剤で保護してあるという徹底ぶりだった。
 たちが一様に物珍しい表情で周囲を見回していると、車椅子を押し進める看護師がこちらですと声を上げる。
 看護師の話によると、どうやらこの階はリハビリ室として東西南北に大きく四つの部屋に分けられてるようで、現在たちは南側の部屋へと向かっていた。
 多少はリハビリの話を幸村本人から聞いていただったが、こうして実際見るのは初めてだと、実のところ彼の回復状況が気になっていた彼女は、リハビリ室が近づくにつれて若干緊張していた。
 南室の出入り口は解放されていた。
 扉から見えた室内の様子だが、そこに幸村と彼の担当の理学療法士の二人以外に姿はなく、また彼らも揃ってたちに背を向けていたため、たちの存在に気付くことはなかった。
 そこで翔太のほんの悪戯心から、あえて声をかけずにしばし様子を見てみようという提案に乗る形で、全員が扉の外側から幸村のリハビリの様子を伺うことになる。
 身体に隠れて良く見えないが、幸村の右手には何かが握られていた。彼が上体を捻ったことでそれがテニスラケットだと気付いたは、とりあえずラケットが握れるまでに回復しているのだと安堵する。
 そして、幸村がそのまま腕を振りかぶった次の瞬間だった。
 彼の手から滑り出るようにしてラケットが床で激しく弾んだ。悲鳴にも似たからんという木の乾いた音が室内に反響する。
 幸村の握力にまだまだ問題があるのは明らかで、その様子に思わずは息を飲む。
 床を滑ったラケットを拾い上げた彼が、そこでようやく複数の視線に気付いたらしく、顔を出入り口へと向けた。
 ラケットを掴むための屈めた姿勢のまま向けられた瞳は、ほんの一瞬、見られたくないものを他人に見られたとでも言うような酷く強張った色を映していた。すぐに、幸村はいつもの穏やかな顔に戻っていたものの、それは鮮烈に彼女の脳裏に焼き付いた。
 彼女は今回の訪問が間違った選択だったのかもしれないと、後悔にも似た感覚を覚えていた。

「情けない姿見られちゃったな」

 皆には秘密にしてねと、笑いながら理学療法士にラケットを手渡していた彼の瞳が、ふとたちの向こう側へと流れる。

「実」

 突然、背後から響いた低い声に、実の肩がぎくりと跳ねる。
 もどきりとして振り返れば、そこには眉間に深い皺を寄せ眼鏡をかけスーツを着込んだ、まだ年若い男が立っていた。

2013/08/11 Up