
こんこんと響いた小さなノックの音に、幸村は本を読む手を一旦止めて扉の方に視線を寄せた。
ところが彼は、口を閉ざしその様子をまるで見守るように押し黙ったままだ。すると、もう一度同じリズムで音が鳴る。
それでも幸村が答える素振りを見せないことを相手が感じ取ると、それが合図になったようにそろりと扉が開かれた。
顔を覗かせた少年の緊張に強張った表情が、室内に誰の姿もないことを認めるや否や、見る見るうちに安堵に変わっていく。
「いらっしゃい。実くんが来るのはちょっと久しぶりかな?」
「幸村お兄ちゃん、リハビリ始まったって聞いた。だから、あんまり頻繁に行っちゃ駄目かなって」
「そっか。ありがとう。もう全部読んだんだね」
オーバーテーブルに抱えた本を置いてから、いつもの定位置の場所に実はパイプ椅子を広げる。
その間に幸村はキャビネットの扉を開け、数冊の小説とクッキーとペットボトルを取り出し彼の目の前に並べた。
「今回のは、ちょっと実くんには難しいお話かもしれないな」
そう言って差し出された本の表紙を実は見つめてから受け取ると、すぐに目次を捲り文字を辿っていく。
それから彼は視線を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「ううん。楽しみ。幸村お兄ちゃんとジャッカルお兄ちゃんの教えてくれる本は、全部大好きだよ」
「なら良かった」
幸村が勧めるまま、実がクッキーのパッケージに手を伸ばした。小さな星形のクッキーの中心は同様に小さな星形にくり抜かれている。その空いた隙間に赤いキャンディーがまるで硝子のようにはめ込まれていた。ステンドグラスクッキーと呼ばれるものだ。
それをぱくりと口に頬張った実が顔を綻ばせる。
「美味しい?」
「うん。すごく美味しい。それにきらきらしてて綺麗だね!」
「くり抜いたところに砕いたキャンディーを詰めて焼くと、そういう風に出来るんだよ」
「へぇー」
ミネラルウォーターを口にしながら実は感嘆する。それから、少しだけ迷った様子を見せたあと、もう一枚クッキーを口へと運んだ。
「幸村お兄ちゃん。良くその本読んでるね」
「あ、そう、かな。この本大好きなんだ。読む度に色々な発見があって」
「面白い?」
「んー、人によるかな。実くんはもう少し大きくなってから読むと良いかもしれないね。どうしたの?」
幸村が首を傾げた。
実は、先程とはうって変わって不安げな表情を浮かべて彼を見返している。
「僕の病室の場所を教えたのって、幸村お兄ちゃん?」
「あぁ、そのことか。実くんの病室がどこか俺も全く知らないよ。ジャッカルも悪気も何もなくて、ただ実くんを心配して探していたんだと思う」
「うん……そうだよね」
彼は、自身の入院着の胸ポケットに手を伸ばし、そこから顔を覗かせていたものを引き抜いた。銀色のブックマーカーだった。そのまま実は手持無沙汰に指先でそれを弄ぶ。
十センチほどの一枚の羽根を象っている銀製のブックマーカーは、上部でUの字に曲げられており羽の部分はページの隙間へ挟み、湾曲した部分は本の背表紙側に引っ掛けるようにして使うタイプのものだった。そして羽の反対側、つまりUの字の先端側には、小さなブルートパーズのチャームがぶら下がっている。本を閉じれば、背表紙からこの石が良い具合に揺れ動くのだ。
これは元々幸村が長いこと愛用していたものだったが、蛍光灯の下ですらきらきらと輝くその石を初めて目にした実の反応を見て、彼が譲ってやったものだった。
余程気に入ったのか、それから彼は栞として使うだけではなく、入院着の胸ポケットにもこうして挿し、肌身離さず持ち歩いている。
「幸村お兄ちゃん」
静かな声に、幸村が本から視線を剥がして実を見た。
彼はオーバーテーブルの上に何かを静かに置く。
「実から幸村お兄ちゃんに。栞のお礼」
そこにあったのは、小さな携帯ストラップだった。
カニカンの先からは幾本もの短いチェーンが房になって伸び、それぞれチェーンの先にカットされた緑や黄色のビーズがぶら下がっている。
更にそのチェーンの束の中心から、一本だけ僅かに太く長いチェーンが伸びており、それは一つの硝子玉に繋がっていた。
薄い緑色の硝子玉は、中で細かくひび割れており、光を通すと乱反射してきらきらと輝いている。
「ずっと前に学校の理科の実験で作ったんだ。一番綺麗に出来たんだよ」
「綺麗だね。ありがとう。本当に俺が貰っちゃっても良いのかな」
「うん」
幸村は携帯電話を取り出すと、元々取り付けていたシンプルな革製のストラップを外してそれを付け替える。
その様子を眺めていた実は、幸村の名前をもう一度呼んだ。
「あのね。幸村お兄ちゃんが前に見てたあれ、どうやったら手に入るの? 僕も欲しい」
実の視線は、今は幸村のものになった携帯ストラップの硝子玉へと向けられている。
幸村も同じように視線を落とせば、球面に浮かんだ歪んだ自身の瞳と目が合った。
「もう元々のはなくなっちゃったんだ。ごめんね。実くんにもこれだけは分けてあげられないんだよ。俺にとって、本当に大事なものなんだ」
「……そう」
素っ気なく呟き、本を読み出した実の表情からは、先程までの無邪気な笑顔は消えていた。