
病室から廊下に出た時、すぐ近くの壁に寄りかかるようにして立っていたその姿を見つけた唯は、思わず彼の名を口にしかけた。
彼は慌てて自身の口元に人差し指を添えて彼女を制すると、その指で今度はエレベーターホールの方向を指差す。
促されるまま黙って着いていくと、彼はやれやれと言った様子でエレベーター前にあるベンチの上に腰を下ろす。続けざまに視線で誘導された唯も同じように隣に並んだ。
「ジャッカルくん。今ってまだ部活中じゃないんですか?」
「あぁ、鷹敷の代わりにスコアまとめたやつを幸村のところに届けに来たんだ。お前は柳に頼まれてノート届けに来たんだろ? 途中で会うかもしれねぇって柳から聞いた」
そう話す彼の手元には、関東大会の時に鷹敷がスコアを書き込んでいたノートがある。
「あの、幸村くんには会っていかないんですか?」
「悪ぃ。お前と幸村が話している時、実は俺病室に入りかけててさ。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、どうにも幸村に顔を会わせ辛くてな」
ばつが悪そうにジャッカルは苦笑し、それから黙り込んだ。
彼の視線は幸村の病室の方へと向けられている。今もどうすれば良いのか迷っている様子だった。
「全部聞いてたんですか?」
「あー、幸村がお前に絵を描くのが好きかって聞いてる辺りからかな。やっぱり、今日渡すのは止めておく。柳だって分かってくれるだろ」
そこから話を聞いていたのであれば、当然仁王のくだりも彼の耳へ入っていたはずだ。それでも彼は、あえてそのことには触れないつもりのようだった。
「なぁ。無川、少し時間があるか? ちょっと付き合って欲しいところがあるんだが」
「えぇ、大丈夫ですけど。一体どこですか?」
彼の視線が、エレベータ脇の案内板に向けられた。上の方から順に辿っていく視線がある場所で止まる。
「三階、かな」
確信を持たないような不安定なジャッカルのそんな微かな呟き声に、唯も同じく案内板を見上げた。
「実くん……ですか?」
「幸村と同じで、ここに入院してるのは間違いないみたいなんだが、肝心の病室がどこか分からないんだ」
エレベータの階数ボタンは『3』が点灯している。案内板によれば、該当階は小児病棟のようだ。
「何の病気かも分からないんですよね?」
「あぁ。でも多分小学校低学年くらいに見えたし名前も一応分かるから、小児科行けば分かるんじゃないかって思ってな」
ゆっくりと下降を始めたエレベーターは、途中で止まることなく三階へ辿り着く。
三階は当然のことながら他の階に比べ、至る所から子供の声が聞こえてきた。エレベーター前のソファーにも入院着の子供たちが楽しげに談笑している。
一見すれば微笑ましい光景そのものだが、そんな子供たちの腕から伸びる点滴や巻かれた包帯にここが病院であることを彼女は再認識させられた。
唯がジャッカルから話を聞いた時、主題である実のことよりも、丸井のように幼い兄弟がいるわけでもないジャッカルが、読書、殊に童話に関して深い趣味を持ち合わせていることに意外だと感じていた。
彼もその点に関しては自分なりに思うところがあるらしく、「童話って言っても、幼稚園児が見るようなヤツじゃねぇぞ」と断りを入れてきた。
「小児科って言えば、俺達もまだ小児科なんだよな」
ふとそんなことを唐突に漏らしたジャッカルの言葉に、唯はほんの一瞬、ある人物の顔を頭に思い浮かべた。あまりの不釣り合いさに思わず唯が息を詰まらせれば、彼が待ってましたとばかりに目を細める。
「……お前、一瞬、真田を連想しただろ?」
「い、いえ、そんなことは……」
「安心しろ……俺もだ。本人には絶対に言うなよ。裏拳マジキツイから」
そう言って、いよいよ堪えきれなかったのかジャッカルは白い歯を零した。
すぐにナースステーションで『草薙実』の所在について確認しても良かったのだが、とりあえず二人でフロア内のルームプレートを確認してみることにした。
唯は南側、ジャッカルは北側と二手に分かれてみたものの、さすがに小児病棟というだけあって、全ての病室が調査対象となり得た。
個室の場合には関係ないが、相部屋の場合には、部屋の入口に備え付けられた部屋番号の直ぐ下に、四つのネームプレートの取付口があり、室内のベッドの位置に対応した場所へと差し込まれている。四つとも埋まっているところもあれば、一つだけ空いているなど部屋によって様々だ。
彼女は歩きながら名前を確認していったが、個室、相部屋共に見つけることが出来ず、ジャッカルよりも先にエレベーターホールに戻って来た。
戻ってきたジャッカルの姿を見て、てっきり北側に該当の名前があったのだろうと思っていたが、意外な反応が彼から発せられた。
「こっちには居なかった。無川の方だったか」
「え? そっちにもいなかったんですか? ジャッカルくんの方だとばかり思ってました」
「あーじゃあ、この階にはいないのか。素直に聞いた方が良さそうだな」
「みたいですね」
互いに苦笑を漏らして、二人は今度こそナースステーションへと向かった。