
数日ぶりに唯と顔を合わせた柳は、挨拶を交わすよりも先に彼女へと紙袋を手渡した。
「あの、柳くん。これは……?」
「先週分の授業の写しだ。これを放課後に精市へ届けて欲しい」
紙袋の口からは数冊のノートが覗いている。柳の口ぶりからすると全教科分あり、更にその全てがコピーではなく手書きで纏められているようだった。
「でも、私で良いんでしょうか。直接柳くんが渡した方が喜ばれるんじゃないでしょうか?」
「確かにそれが一番だろうが、精市の面会時間はまだ練習中だからな。それに……いや、無川には手数をかけるが、頼まれてくれないか」
「あ、えぇ、分かりました」
「助かる」
柳は常に要点のみを述べるため、言葉数がそう多くないのは今更な話だったが、そんな彼が一瞬吐き出しかけて振り切った言葉の意味について何となく察しがついていた彼女は、それ以上口にせずに頷く。
(幸村くんのことを考えて、皆なるべく病院には顔を出さないようにしてるのかな)
唯は、テニス部の部室の方へと廊下を歩いていく柳の後姿をしばらく見つめていた。
「これ、柳くんから。先週分のノートだそうです」
「ありがとう。後で蓮二に電話もするけど、唯さんからもお礼を言ってもらえるかな」
彼女が頷けば、とたんに沈黙が室内を包み込む。
幸村と交わせる共通の話題といえば、絵かテニスの話くらいだ。前者に関しては、先日に彼に頼まれていた城咲が所有する画集を渡したばかりであり、後者に至っては、この状況下で口にすることすら憚られた。
やはりここは、絵の話題に持っていったほうがいいだろうと、画集に関連した情報を脳内から引き出していた時だった。
「弦一郎が、関東大会で負けるなんてさすがに思わなかったな。どうやら青学も良いルーキーが入ったみたいだね。全国が楽しみだな」
そう言って幸村がくすくすと楽しそうに笑った。
彼の意外な反応に唯が言葉を返せずにいると、彼はおもむろにテレビのリモコンを手にしてスイッチを入れた。
黒い画面に徐々に映像が浮かび上がると、そこには真田と青学の越前リョーマの試合が繰り広げられていた。参考資料として撮影されていたものだろう。それを見た彼女は、思わず息を飲んだ。
「油断は禁物だよって言ったのにな。弦一郎の言葉を借りるなら『たるんどる』ってところかな?」
唯の表情が変わらないことを感じて、幸村は軽くおどけて見せる。
それでも硬い表情が張り付いたままの彼女の瞳は、最終セットとなった試合を映し出すテレビを捕らえていた。
「負けた事実はどうやっても変えられない。大事なのは、そのあとの分析と対策だよ」
蓮二がもう考えているだろうけどねと幸村は笑う。
越前が大きくラケットを振りかぶる瞬間で、幸村の手が再びリモコンのスイッチへと延び、テレビは黒く塗り潰された。その中央に強張った表情の自身の姿を認めた唯は咄嗟に顔を逸らす。
「本当は再来週の月曜からリハビリが開始になる予定だったんだけど、どうやら前倒しで来週の水曜から始められそうなんだ」
「そうなんですか。それは良かったですね!」
病室に入って初めて緊張を解いた顔で彼女が声を上げれば、幸村は大きく頷く。
「ゆっくりもしてられないし、このままじゃ全国にも間に合いそうにないからね。早くラケットが握りたい。コートに立ちたい」
それは彼の心からの言葉のようで、一貫して穏やかな彼の声が、この時ばかりは揺らいでいるのを彼女は感じていた。
言葉として含ませることが難しいと言う彼の葛藤がそこにはあり、唯は勿論きっと柳だろうと真田だろうと、本人以外には理解出来ないのだろう。
「唯さんは絵を描くのが好き?」
「え? は、はい、好きです」
「そっか。俺もテニスが好きだ。だから誰にも負けたくないし、負けないし。それに負けさせたくもないんだ」
もう一度リモコンのスイッチを彼が押せば、先程の場面のまま一時停止の状態で画面は止まっており、ピッという音が響くのと同時に彼の放ったスマッシュが真田の横をすり抜けていった。
「決勝では、越前くんと試合がしたいな。何となくシングルス1は手塚じゃなくて彼が出る気がするんだ。それに、弦一郎は手塚と本気でしたがってるから、もしかするとその前に試合が終わっちゃうかもしれないけれど」
「確かにすごかったですけど、越前くんってそんなに強いんですか?」
「うん。すごい子だよ。蓮二に聞いたら、あの越前南次郎の息子なんだって」
「越前南次郎さん?」
「あぁ、ごめん。“サムライ南次郎”って呼ばれた元プロテニスプレーヤーの人だよ。テニス界では有名なんだ。さすがに血は争えないってところなのかな」
「やっぱり両親の影響とかあるんですね」
「多少はそうかもしれないど、少なくとも俺たちはそうじゃないかな」
「そうなんですか? てっきり幸村くんとか真田くんもそんな感じかと思ってました」
「そんなことはないよ。俺は小さい頃からテニスやってるけど両親は全くだし、弦一郎も蓮二も同じような感じかな。柳生なんてそれまでゴルフをずっとやってて、テニス始めたの中学に入ってからなんだよ。あ……」
そこまで話して、ふと幸村が口を噤んだ。
どうしたのかと唯が様子を窺っていると、声の調子を落として彼は続ける。
「仁王もね、やっぱりご両親はテニスに縁のない人だったみたいなんだ」
今までと何ら変わらない話題だが、どこか幸村の言葉を選ぶような緊迫感を孕む声が響く。
「理由は知らないけど、仁王が小さい時にお母さんが亡くなったらしくて、今はお父さんと二人暮らしをしているんだって。だから、あんまり自分から家族の話をしたがらないし、俺たちですら聞かれることをすごく嫌がって不機嫌になるから、唯さんも一応気を付けてね」