カレイドスコーピオ

インビジブル

09.関東大会 / 11

「そうなんだ」

 一通りの報告を受けて一言そう呟いた幸村は、一瞬だけ黙り込んだあと更に短い会話を重ねたのち携帯電話の電源を落とした。
 窓から見える外の様子は、昨日に増して深みのある青空が広がっている。染みとなる雲の欠片すらそこには落とされていない。
 空調で居心地良く創られたこの部屋では、むせ返る外気を感じることはおろか、想像することすら彼の感覚から削ぎ落としていく。
 かろうじて外を歩く人が揃って浮かべている険しい表情を垣間見たことで、幸村は随分と今日も暑いのだろうと自分を納得させた。

「どうしたの?」

 ベッドと窓の間には、ちょうど人一人が座れるほどのスペースがあるが、その隙間に埋もれるように椅子に座っていた実が、本を読む手を止めて心配そうな瞳で幸村を見上げた。
 幸村は窓から視線を剥がすと、表情を和らげて実に笑いかける。

「今日の試合、負けちゃったみたいなんだ」
「えっ。じゃあ、幸村兄ちゃん、もう次の試合に出れないの?」

 実ががたりと音を立てて椅子から立ち上がる。
 はずみでオーバーテーブルの上に置かれた二本のミネラルウォーターが入っているペットボトルが大きく揺れた。
 倒れそうになるそれを幸村はそっと抑えながら、幸村は優しい声のまま話を続ける。

「全国大会には行けるから大丈夫だよ。それには絶対に負けられないけどね。そう言えば、実くん。もうすぐ検査の時間じゃなかったかな?」

 彼の言葉に実は時計を見て、小さくあっと声を上げた。
 気付けば実が幸村の病室を訪れてから一時間以上も経過している。

「もうすぐお父さんが来ちゃう! もう帰らないと!」
「ごめんね。いつも病室に送ってあげられなくて。重くない?」
「大丈夫。幸村お兄ちゃんも早く外に出れると良いね。負けちゃ駄目だよ」
「うん。ありがとう」
「ジャッカルお兄ちゃんにも、本ありがとうって伝えて」
「分かった。でも、今度会ったらジャッカルに言ってあげてね」

 こくりと実は頷いて、オーバーテーブルの隅に置かれていた数冊の本を大事そうに抱えた。
 その全てが、昨日レギュラーたちが見舞いがてら試合結果の報告に来た際、ジャッカルが彼のためにと置いていったものだ。
 いつものように、実は廊下に人の姿がないことを確認してから自分の病室へと戻っていく。
 それから幸村も読みかけの本を手に取り開いたが、思い直してゆっくりとベッドを降り、サイドキャビネットの上扉を開いた。
 そこには数冊の文庫本の他、日用品や先日が渡したクッキーの入った袋が置いてある。
 彼は、一通り本のタイトルを眺めてから一冊を取り出し、代わりにそれまで読んでいた本を戻した。そして、再びベッドへと戻ると表紙を捲った。
 数ページ読み進めたところで、幸村は再び本を読むのを止め、ベッドカバーの上へとそれを投げ出した。
 白いカバーの上に沈み込んだ本は、先日読んでいたファウストだった。
 彼はちらりと視線をそれに落としてから、タイトルが見えないよう伏せる。裏表紙には数行のあらすじが縦書きで書かれていたが、それすらも今は目にするのが嫌ならしく、幸村は窓の外に視線を寄せる。

「……そっか……負けたんだ」

 誰に告げるともしれない言葉が静かに響く。
 握り締められたベッドカバーに歪な皺が寄り、弾みで上に投げ出されていた本が床へと滑り落ちた。

 王者陥落。
 そんな言葉が、校内だけではなく校外でも流れる中、そのことを誰よりもレギュラーたちが痛感していた。
 関東大会は青学が優勝、立海が準優勝という結果で幕を閉じた。
 ダブルスこそ二戦とも勝利を収めたものの、シングルスに関しては三戦とも落としてしまうという予期せぬ結果に、一番ダメージを受けたのは、他でもない切原だった。
 彼の対戦相手は、天才と名高い不二周助であり、ゲーム序盤こそ切原のペースで進んでいたが、中盤にさしかかったところで、一転して不二がその実力を発揮し、圧倒する形で切原は彼に敗れた。
 その事実は、相当切原には堪えたらしく、試合後の彼は口数が減り、普段の陽気さが掻き消えてしまっていた。
 彼の性格上、下手な慰めの言葉はかえって彼のプライドを刺激してしまうだろうと考えたは、試合終了後、彼や他のメンバーに対しての連絡は控えていた。
 切原と続けていた他愛のないメールのやり取りが途絶えたのもこの頃からであり、クラスメイトの丸井ですら、関東大会後は切原と同様に教室では一人で静かにしている場面が増えている。
 唯一仁王とは、変わらずこれまで通りの距離感を保っていたため、現状のテニス部の状態について最低限の話を聞くことが出来た。それでも彼も多くは語らず、またもこれと言って深入りして聞き出すつもりもなかった。
 ただ、はっきりしていたのは、青学に敗北した日から、テニス部の練習がこれまでに増して熾烈を極めるものになったということと、この状況ではジョーカー探しどころではないということだった。

2013/06/30 Up