カレイドスコーピオ

インビジブル

09.関東大会 / 5

 家に帰ってすぐに部屋へと駆け上がった彼女は、着替えもそこそこにベッドへと雪崩れ込んだ。
 先にそこで陣取っていた黒猫のネロが、一声鳴いて飛び降りると、恨みがましい目で彼女を見上げる。

「ごめんごめん……疲れた」

 ベッドに沈み込む身体とあわせながらゆっくりと息を吐けば、強張った身体の緊張が徐々に解けていくのが心地良い。
 やがて意識はぼんやりと霞み、すぐにでも彼女の手から離れてしまいそうに軽くなった頃、狙いすましたように背中に重みを感じた。

「ネロ……降りて。重い……」

 そう言ってが身を捩るとまもなく制服越しに爪を立てられる感触を感じ、彼女は抵抗を諦めざるを得なかった。
 ネロが一つ大きな欠伸をして、彼女の背の上で丸くなれば、重みの他に彼の高めの体温がじんわりと広がっていく。
 浅い眠りはすぐそこまで来ていた。

 聞き覚えのあるオルゴールの音は、第一にこれが夢であることを彼女に確信させた。
 が自分が座っている椅子の肘掛にそっと触れてみれば、部屋の室温に反してひんやりとした感触に肌がざわめいた。
 目の前の壁に掲げられた金の額縁は、真っ白な背景が嵌め込まれたまま空っぽだ。オルゴールの音が響き始めたということは、もうすぐまた意味のなさない影絵の上演が始まるのだろう。
 背もたれに寄りかかれば、そこも肘掛同様に底冷えする冷たさを宿し、まるで彼女の体温を奪わんとするほどで、は慌てて背を浮かせた。
 急に座っているのが恐ろしくなった彼女は、椅子から立ち上がる。するとそれまで少し見上げる位置にあった額縁が、ちょうど彼女の目線の高さにあることに気が付いた。
 オルゴールの音は未だに続いているが、一向に絵が変化する様子はない。不思議に思った彼女は、額縁の近くに寄る。
 額縁には、肝心の絵だけではなく、本来はあるべき硝子すら嵌め込まれておらず、背面板が剥き出しの状態だった。それよりも彼女が驚いたのは、てっきり白いキャンバス地か木板だとばかり思っていたその部分が、和紙のように薄い紙であったことだった。
 透けて見える向こう側には空間が広がっている。薄暗いこの部屋よりもそちら側は幾らか明るいらしい。
 が手を伸ばして表面に触れれば、その先から赤い染みが一瞬にして広がった。彼女は慌てて手を引き指先を見つめれば、傷も痛みもないが、ぬるりと粘着質なものが指先を濡らしている。どう見ても血のようにしか感じられず、咄嗟にスカートの裾で拭った。
 額縁に滲んだ赤はみるみるうちに全体へと広がっていき、やがて、右上の隅に小さく引き裂いた跡が浮かび上がった。
 一瞬だけは迷ったが、再び額縁に近寄ると、破れた部分へ人差し指と中指を引っ掻ける。湿った紙の感触は、椅子の冷たさと良く似ていた。
 そのまま左下へ裂くように滑らせれば、抵抗なく千切れ、向こう側の景色が飛び込んでくる。
 やはり、この部屋よりは明るい。というより、真っ白な部屋だ。は反射的に目を細めた。
 向こう側の突き当りに見える壁にもこの部屋と同じように額縁がぶら下がっている。そして、床に誰かが座っていた。瞬間、背筋がぞっと凍るのを感じて、は動けなくなった。
 “何か”が自分の後ろにいる。じっと息を顰めたまま、彼女の様子を窺っていた。振り向くなと警告が彼女の内側から鳴り響くが、そんな気持ちとは無関係にの身体がゆっくりと振り返ろうとした。

――駄目だよ。そっちじゃない。

 響いた自分の声に、はっとして再び白い部屋に視線を戻せば、床に座っていた人物が立ち上がり、の方を振り返っていた。
 その人物の口が僅かに「こっち」と動けば、彼女のすぐ横をまるで突風のようにその“何か”が過ぎ去り、向こうの白い部屋へ飛び込んでいく。
 次の瞬間、白い部屋の明かりが消え、全てが暗闇に包まれた。

 がりがりという音にはっとして顔を上げると、蜂蜜色の瞳と目があった。音の正体は彼がのすぐ近くにあった携帯電話を引っ掻いていたために起きていたものだった。
 慌てて携帯電話を拾い上げれば、案の定、表面にはすっかり彼の勲章が刻み込まれている。ため息をつきながらも手を伸ばしてネロの頭をくしゃりと撫でてやれば、彼は誇らしげに低く鳴いた。
 転寝をしてからまだ十五分しか経っていないことに驚いていると、メールの到着を知らせる通知に気付く。
 確認してみれば佐竹からのもので、今日の件に関する簡単なお礼の内容だった。彼女は素早く返信するともう一度ベッドに身体を預けようとして寸前で思い止まり身体を起こした。このまま眠れば、先の夢の続きを見てしまいそうだったためだ。
 ネロを引き寄せると、彼は珍しく抵抗もなく彼女の膝の上に乗った。毛を指で梳きながら、蛍光灯のリモコンのスイッチを押せば、みるみる部屋が明るく染まる。
 病院で幸村から聞いた話が、ぐるぐると彼女の頭の中を駆け巡る。
 彼はに対して、あの時多少なりとも答えを期待していた。だが、持ち合わせる言葉など何もない。彼女は未だに、仁王についての詳細を知らないのだ。
 そもそも、彼はなぜ憑代を始めとしたそういった類のことに関する知識が深いのだろうか。ただ視えるだけの人間ならそれこそいくらでもいるだろうが、仁王のそれは全く異なっている。
 普通という括りをどこまで敷延すべきか明言は難しいが、これまで目にしてきた彼の行為の全ては、あまりにもそこから逸脱しているのだ。

 “仁王雅治とは、一体何なのか”

 幸村が吐き出した疑問は、今や彼女の疑問にもなりつつあった。
 そして、もう一つ気がかりなことがにはある。

(どうしてだろう。どうして仁王くんだったんだろう?)

 白い部屋で振り返った黒髪の少年は、まるで仁王にそっくりな姿をしていた。

2013/06/13 Up