カレイドスコーピオ

インビジブル

09.関東大会 / 4

 それから、三十分ほど幸村と他愛のない話をして、たちは病院を出た。
 外は大分薄暗くなっていたが、病院の正面口前に広がる駐車場にはまだ多くの車両の出入りがあり、眩しいほどの照灯が駆け巡っている。
 は大通りに出たところで佐竹と別れると、そこで初めて携帯電話にメールが届いていることに気が付いた。幸村からだった。

『話しておきたいことがあるんだけど、戻ってきてくれるかな?』

 幸村からの文面はそれだけで、は不思議に思いながら時間を確認した。入院患者との面会時間は十九時半までだ。今から戻ったとしても、まだ十分に間に合う。
 彼女は今から行く旨を返信し急いで病院へと戻った。

「引き留めてごめんね。でも佐竹くんの前では、どうしても話せなくて」

 幸村は眉を下げて申し訳なさそうな声でそう切り出した。

「こちらこそ、メールに気付くのが遅くなりました。それで、話ってなんでしょうか?」

 わざわざ呼び戻してまでの内容だ。さすがの彼女も、彼の話に強い興味があった。
 少し迷った様子を幸村は見せたあと、手元にある先程も見たゲーテの本の表紙を軽く撫でながら口を開く。

「仁王って、さんの家に行ったことがあるんだよね?」
「はい。前に私が休んだ時に。どうしたんですか? 急に」
「あ、いや、別に変な意味じゃなくて、仁王が誰かの家に行くって珍しいからさ」
「え? そうなんですか。意外ですね」

 確かに仁王は他人と密な付き合いを良しとしない傾向が強いが、この前の鏡の件で丸井が切原を自宅に誘ったように、てっきりレギュラー同士の交流においてだけは盛んなのだろうとばかり思っていたは、幸村の言葉に素直に驚いて首を傾げた。

「うん。全くないって訳じゃないけどね。でも、なんて言ったら良いのかな。仁王はそういうところが誰よりも淡白なんだ。他の人と比べればずっと近いのかもしれないけど、俺達とも常にどこか一歩線を引いてると思う。一年の時からずっとね」

 彼の言葉を引き金に、の脳裏に幸村が美術室で仁王に詰め寄った時の光景が再生される。
 もしかすると、彼が話したいのは仁王のことなのかと思った時には、彼女の口はひとりでに開いていた。

「あの、聞いても良いか分からないんですが、前に美術室で仁王くんに“一年の時もそうだった”って言ってましたよね? 一年の時に何かあったんですか?」

 言ってから、あまりに踏み込んだことを聞いてしまったと彼女は口を噤む。
 幸村は、「そうだね」と呟き、窓の外に視線を寄せた。そして、ややあってから話し始める。

「俺がさんに話しておきたいのって、実はこのことなんだけど、一年の時に、男子テニス部の部室の窓硝子が割れたことがあったんだ。覚えてる?」

 が首を横に振れば、幸村は僅かに驚いた表情を浮かべた。
 それほどまでに大きな出来事だったのだろうかと記憶が辿るが、やはり当時の彼女は男子テニス部について、全くと言っていいほど興味がなかったため、思い当たることはどうしてもなかったのだ。

「部室と言っても、俺たちが一年の時は今の一階じゃなくて四階の北側にあったんだよ。わざとコートから遠い場所にしてたらしくて、着替えは勿論、荷物を取りに行くにもその都度階段を上り下りしなきゃいけなかったから、結構大変だったな」

 楽しげに目を細めた幸村に、も改めて思い返してみたが、やはりいまいちぴんと来ない。すると幸村が更に「今は新聞部の部室になってるよ」と付け加えた。そこでようやく彼女の脳内に、テニス部の旧部室の場所だけはマッピングされる。

「硝子が割れたのを最初に見つけたのは俺と柳生なんだ。その時、部室の中には仁王が一人でいて、割れた窓硝子をずっと見てた。一体何があったのか聞いたら、ふざけて自分で割ったってしか言わなくてさ。確かに仁王の両手は、硝子で切って血が出ていたし、破片も全部下にある土の上に散らばっていた。先輩たちと顧問にも仁王は同じように説明して、俺と柳生は唯一の目撃者だったから、結局なし崩しに仁王は一ヶ月のペナルティを負うことになった」

 そこまで話して幸村は窓から視線を剥がし、今度はの顔を真っ直ぐに見た。

「それから少しして、俺の友達が、実はたまたま一階からその様子を見ていたことが分かってさ。一階の丁度窓の下には、運動部の物置があるからね。彼は、その時、窓がある位置からは少し離れた場所で、備品の整理をしていたらしいんだ。何となく視線を上げたら、部室の窓から仁王が顔を出して、まるで周囲を気にするみたいにきょろきょろ見回しているのを見つけて、彼は声をかけようとしたんだけど、面白そうだからと物置のひさしや荷物の影に隠れて様子を見ていたんだって。仁王が頭を引っ込めた後、次々にそれこそ雨みたいに硝子の破片が降って来たらしいんだ。仁王が、硝子を割ったのを隠そうとしたんだろうって彼は笑ってたけど、でもそれってちょっとおかしいんだよ。自分で硝子を割ったなら、多少は室内に散らばるだろうけど、破片の殆どは外側に散るはずなのに。そのことを後で仁王に問いただしてみたんだけど、やっぱり知らないの一点張りで。結局、有耶無耶になったまま話は終わってしまって。その間、ずっと仁王は冷めた目で俺たちを見てた。まるで、知らない人だったよ」

 話し終えた幸村は、ペットボトルのミネラルウォーターを一口煽り、大きくため息をついた。

「この話は、俺と柳生だけで止まってる。だから、蓮二も弦一郎も知らない」
「え?」

 なぜそんな話を自分にと尋ねるよりも早く、幸村が疑問を口にする。

さんはどう思う? 仁王のこと、どう見える? さんには、一体どんな風に見えているの?」
「ど、どうって……」
「あ……いや、何でも、ない。ごめん。変なこと聞いて。その人の本質を他人が理解出来ないなんて、そんなの当たり前だって肝心なこと忘れてた。俺もさんも」

 その時の幸村の声があまりにも寂しそうで、は彼にかけるべき言葉を見つけることが出来なかった。

2013/06/09 Up