カレイドスコーピオ

インビジブル

08.小さな部屋 / 43

 と仁王が美術室に戻ると、そこには真田とジャッカルの姿も揃っており、その傍らに少し眠たげな目をした藤ヶ谷がいた。
 一方の切原はと言うと、彼もまた起き上がりかろうじて姿勢こそ保ってはいたものの、今にもそのまま崩れ落ちそうなほどにゆっくりと舟を漕いでいる状態だった。
 藤ヶ谷は、睡魔を振り切るように目を瞬かせながら、と入れ替わりに美術室を出て行こうとしていた。

「良く分かんないけど、皆に迷惑かけちゃったみたいね。ごめんね」

 すれ違いざまに藤ヶ谷は足を止め、と仁王に申し訳なさそうに一礼した。
 そのまま出て行った彼女の廊下を走る足音が、段々と遠のいていく。

「藤ヶ谷は、やはり当時のことは何も覚えていないようだ。そっちはどうだったんだ?」

 完全に足音が消えたのを確認してから、柳がそう切り出した。
 と言うことは、先程の彼女の謝罪は、アルバムのことを指しているわけではないのかと、は城咲とのやり取りを一通り説明しながら仁王の様子を窺う。彼は特に口を挟む素振りを見せることもなく、完全に彼女に任せているようだった。
 そうして、城咲が辞職するというくだりだけは除いた一通りの説明が終わると、一番初めに丸井が不服そうな声を上げた。

無川。お前それで本当に良いのかよぃ?」

 だってと続けた丸井は、の顔を見てそこから先の言葉をぐっと飲み込んだ。
 そのまま、続きは言わなくても分かるだろと言わんばかりに、しばらく彼女の顔を見つめたあと、彼は目を逸らす。

「はい。城咲先生は何も悪くないですから。勿論、ジョーカーは絶対に許せませんけど」

 が丸井を見つめたままきっぱりと言い切れば、結局彼は彼女と視線を交わさずに、渋々と言った様子で首を縦に振る。

「幸村からメールが来た時は全然事情が分からなかったが、何か、大変だったみたいだな」

 腕組みをしたまま黙って事の成り行きを眺めている真田をちらりと見てから、ジャッカルがそう漏らす。
 聞けば、幸村からの指示で、校内のそれも部活動中の人間が出来るだけいる場所に留まっていたという二人は、特に影響がなかったらしい。

「でも、結局、藤ヶ谷さんと城咲先生が利用されていたということ以外、ジョーカーに関する目立った情報はなかったね」

 柳のノートを見返して幸村が呟く。柳はその横で別なノートに書き込みながら仁王に尋ねた。

「今後も同じように、何かしらの問題が起きる可能性は限りなく高いな。で、どうするつもりなんだ?」
「ジョーカーが動くのを事前に阻止するのはまず困難じゃ。だからこそ奴が動いた時の被害は最小限に留めつつ、無川と正体を探るつもりぜよ」
「そうか。俺たちは何をすれば良い?」

 さらりと返された言葉に、仁王の眉間に深い皺が寄った。
 一方のも、少しは予想がついていた展開とはいえ、それを遥かに上回る回答を持って切り返してきた柳に驚きを隠せず、二人の顔を見返していた。

「……ちょっと待て。今回は成り行きで止むを得ずこうなったが、次からは話は別じゃ。参謀たちをこれ以上巻き込むわけにはいかんぜよ」
「ならばこちらとしても成り行きだ。他に異存のある者はいないと思うぞ」

 柳が他のレギュラーたちに視線を送れば、特に異論の声が上がることもない。
 彼は一転して不愉快そうに歪んだ表情を浮かべる仁王に対して、淡々と「だそうだ」と告げる。

「ある程度の予防策は講じているんだろう。ならば問題はないはずだ。それにこの先、分析やお前の足となる人間も必要になるはずだ。勿論、勝手な行動はせず、仁王の指示通りに動くと言うのが大前提だ」
「今更もう関係ねぇってマネ、俺には無理だし。それに、どっちにしたって、この先もジョーカーに俺たちが狙われるかもしれないってことも変わんねぇんだろ? まぁ、ジャッカルが何とかしてくれるって思ってるから平気だし」
「おい、ブン太!」
「冗談だって。それより、無川

 軽口を叩く丸井に前触れもなく呼ばれ、が視線を向ければ、彼は携帯電話を操作していた。

「お前、下の名前ってどう書くんだ?」
「え?」
「だから漢字。この前、緊急で連絡先交換した時、とりあえず名字だけ登録したんだけど、テニス部に同じ名字の奴いてさ。被って分かり難いんだよ。表示変えるから教えてくれ」

 彼に言われるままに彼女が名前について説明すると、丸井は手早く携帯電話のボタンを押していく。

「登録完了っと。じゃあ、、改めてシクヨロ」
「え、あ、あの……」

 笑顔でピースサインを向ける丸井に、しどろもどろになるを遠巻きに見つめるレギュラーの反応は様々だ。
 中でも特に切原は、それまでただひたすらぼんやりとしていたのがまるで嘘のように、目を丸くして二人を見つめている。

「なぁ、参謀。丸井って、時々つくづく丸井だと思うんじゃ」
「あぁ、それには俺も全く同意見だ」

 そんなやり取りがひとしきり収束すると、今度は切原が悲鳴に近い声を上げる。

「あー俺、制服やべぇ! このままじゃ、ジョーカーよりも先にかーちゃんに殺される!」

 今回の一件で、彼の制服は焦げ付きや擦り切れだらけという酷い有様になっていた。
 普段着用していてなるはずもない制服の惨状に、彼が頭を抱えるのも頷ける。

「あーじゃあ、帰りに俺の家に寄って行けよ。予備のやるから」
「ま、丸井先輩~!!」

 とたんに表情を明るくして丸井を褒め称えるような言葉を次々に吐き出した切原に、丸井が「菓子一ヶ月な」と宣告すれば、彼はぴたりと口を閉ざした。

「折角描いた鏡の絵、あんなことになってごめんね」
「いえ、もともと仁王くんたちのために描いたものですから」
「今度こそ、本当にお疲れ様。さん」
「あ、ありがとうございます」

 賑やかな様子を横目に幸村が声をかければ、今度こそは返事を返し、ふと窓の外を見た。
 外はすっかり日が落ち、逢魔が時は鳴りを潜め、静まり返った深淵に辺りは包まれている。
 落ちた魔は、本来いるべき場所に還ったのか、それとも同じ場所に留まったまま次の逢魔が時を待つのか。
 は、なぜ自分がそんなことを唐突に思い描いたのか分からなかったが、今はこうして無事を素直に喜びたいと仁王の顔を見た。
 彼は変わらず憮然とした面持ちを崩していなかったが、それでも事態を受け止めることに決めたらしいというのは彼女の目からも容易に理解出来た。
 事態は確実に動いていた。自分たちだけではなく、ジョーカーもまた然り。

 そして、幸村が部活動中に突然倒れ病院へと搬送されたのは、関東大会の四日前のことである。

2013/05/27 Up