カレイドスコーピオ

インビジブル

08.小さな部屋 / 41

「前に美術室で油絵を描いていたことがありましたよね? あの時、城咲先生は確かに左手に絵筆を持っていました。それに……」

 そこまで言っては口籠った。
 一方の城咲は、やはり言葉を発さず、ただ催促するような瞳で彼女を見つめている。
 は意を決して、折り畳んだハンカチを彼の前に置いた。そして、ゆっくりとそれを開いていく。

「これが、城咲先生の絵の裏から出てきました。刃のところに絵の具が残っています」
「だから、僕が無川くんの絵を切り裂いた犯人じゃないかと推測したんだね」
「……はい。でも、分からないことがあるんです。何で城咲先生があの絵を描いたのか、どうしてわざわざカッターの刃だけをあの絵に残したのか。私には、どちらもその意味が分かりません」

 ハンカチの中に並んでいるカッターナイフの刃を見つめていた城咲は、ややあってから口を開いた。

「今となっては、何を言っても言い訳にしかならないけど、僕が自分がしてしまったことを断片的にだけど思い出したのは、ついさっきなんだ。なぜだか分からないけど、急に憑き物が落ちたみたいに身体が軽くなって唐突に。無川くんがここに来たら全部話すつもりだった。教師としても、一人の人間としても、君に対して本当に取り返しのつかないことをしたと思っている。申し訳ない」

 遠くを見るような目をした城咲は、ふと苦笑を浮かべ、それから深く頭を垂れた。

「だけど、正直なところ、君の絵をあんな風にしてしまった直後のことは、特に曖昧で。だけど、無川くんの絵を模写したことははっきりと覚えているよ。まず、そっちから説明しようか。君も絵のサインを見ただろう?」
「はい。あの絵は去年の冬に描かれたんですね」
「うん。無川くんに見られた時は、ちょうど手直ししていたんだよ。僕は元々左利きなんだけど、事故で具合を悪くしてね。それからは、字も絵も右手に矯正したんだ。だけど、油絵だけはどうしても左じゃないと落ち着かなくて。でもこんな風に震えて、上手くもう描けない」

 そう言って城咲は、机上にあったティースプーンを筆を握るように掴んでみせた。
 確かに彼の言う通り、小刻みに震えている。

「話が逸れたね。あの枝垂桜の絵を見た時、昔の自分を見ているような懐かしい気分になるのと同時に、酷く無川くんが羨ましくなってね」
「羨ましい……?」
「うん。どこまでも僕は浅はかだった。まだ幸いだったのが、それが嫉妬ではなくて羨望で止まったことかな。本当はここで君に事前に許可を取るべきだったと思うんだけど、どうしてもその衝動だけは止められなくて、君の絵を秘密のまま写させてもらったんだ」

 でも、結局は駄目だったと城咲は小さく付け足した。
 にはやはり彼の言葉の真意が理解出来ないままだったが、城咲の表情を見て浮かび上がった疑問を飲み込み口を閉ざした。

「カッターの刃のことも記憶にないけれど、処分しなかったのは、そうだな、きっと君に対して多少なりとも引け目があったからかもしれないね」
「城咲先生。最近、何か変なことはありませんでしたか?」
「変なこと?」
「はい。例えば、絵のこと以外に記憶が飛んでいたり、変なものを見つけたり、誰かに何かをもらったりとか。とにかく何でも良いです」

 なるべく言葉を選んだつもりが、予想外に直接的になってしまったとは焦ったものの、当の城咲は気にしていないのか真剣に考え込むような表情を浮かべている。

「そう言えば、この前、彼女からあれを貰ったな」

 城咲がぽつりと零した言葉に、の手に思わず力が込められる。

「それってなんですか?」
「……それに答える前に、一つ、僕からも聞いて良いかな?」
「え? あ、はい」
無川くんはどちらかと言うと、俺が君の絵を破いたということよりも、そこに至るまでの過程について聞きたがるね。何か特別な理由があるのかな。どうして、君の一年を無駄にさせてしまった僕のことを少しも責めない?」
「それは……」

 そこでは押し黙る。
 彼の話を聞く限り、仁王が可能性の一つとして提示した“城咲がジョーカーであるかもしれない”という可能性が消えた今、そのジョーカーが仕掛けた痕跡について確認することが最重要事項となってしまったが、まさか彼にそれを説明するわけにもいかない。

「話せないなら構わないよ。それに、僕も少し言葉が過ぎた。だけど、本当のことを言うと、叱責されたほうがずっと良かったかもしれない」

 困ったような、あるいは悲しそうな複雑な感情をない交ぜにした表情で、城咲はそう呟く。
 その瞬間、はばっと顔を上げ、大きく頭を左右に振った。

「違います。私も城咲先生に謝らなくちゃならないことがあるんです。きっと、城咲先生は何も悪くない」

 両手で包み込んだ彼女のマグカップの水面が、不規則に揺れている。

「私、私、あの時、絵があんなことになって、正直ほっとしていました。城咲先生も言ってましたけど、今年になってから、絵が思うように描けないことが増えてきたんです。今まで自然に出来たことが出来なくなって。多分、今年は去年よりもっと良い賞をというプレッシャーがあったんだと思います。手直しした絵だって、結局、全然満足出来なかった。だから、絵がなくなった時、肩の荷が下りたみたいで、むしろ、本当は心の中で犯人に感謝してたくらいです」

 一息に言い終えたは、温くなったココアを喉に押し込んだ。
 ざらりとした独特の感触が舌を走る。

「だから、私、このことを大事にするつもりはありません。城咲先生を責めるつもりもありません。だけど、何でこんなことになってしまったのか、その原因は探さなきゃいけないんです。だから、城咲先生が覚えていることを全部教えて下さい。お願いします」

 マグカップを強く握りしめたまま、俯き加減に彼女は吐き出すように言葉を紡ぐ。
 しばらく躊躇った様子を見せていた城咲だったが、やがて、小さく「分かりました」と口にした。

2013/05/20 Up