
鏡を潜り抜けた四人の姿を見て、安心したのもつかの間だった。
勢い良く燃え上がった炎は、既に絵の殆どを焼き尽くしていた。
この突然の出来事に、それを眺めているしか出来なかった柳生と幸村が、はっとして水道へ走り出しかけたところで、仁王が引き留める。
「あれは普通の火じゃないぜよ。証拠にここの火災警報装置が反応しとらんじゃろ。目的を達成するまで消えんから放っておきんしゃい」
彼の言葉に柳生と幸村は目を見合わせる。やがて炎は、唯の絵を全て包み込み、一回りその姿を大きく膨らませたかと思うと、次の瞬間、まるで初めから何もなかったかのように跡形もなく消え去った。
あれだけの炎であったのにも関わらず、壁には延焼の形跡すらない。その光景を目の当たりにして、唯たちが一様に固まったまま壁を穴が開く勢いで見つめていると、静寂を破るように仁王が口を開いた。
「無川、手は何ともないか?」
「手? 私なら大丈夫です。でも仁王くんのほうが……」
「そうか」
仁王は唯の言葉を遮り、皆の鞄が置かれている場所に歩み寄ると、その中から自分のものを引き寄せた。
彼女の隣に立っていた柳生が、仁王の鞄を見て首を傾げる。
やがて、包帯を取り出した仁王は、両の手の平に浮かび上がった青痣を覆うようにして器用に巻きつけると唯たちの元へ戻ってきた。
「参謀も丸井も大丈夫か?」
「あぁ、特に問題ない」
「気分はどっちかっつーとサイアクだけどな」
丸井は藤ヶ谷を倒れないように椅子に座らせ、机に身体を預けさせると軽口を叩いた。そうして、自分も椅子に座ると、深く息を吐きながら机に突っ伏す。
「仁王くん。それで、切原くんは……」
柳生が切原の姿が見えないことに心配げな声で尋ねれば、仁王が机の上に先程の写真を置く。
あれだけの炎に塗れてもなお、写真は一部が焦げたのみだったが、それを見た柳が小さく疑問の声を上げた。
「写真の様子が、先程とは変わっている」
「そろそろ、赤也もここから出してやらんとな。参謀、アルバムをくれ」
写真はいつの間にか床にうつ伏せに倒れ込んでいる藤ヶ谷と、そこから距離を取るように後ずさっている切原の姿に変わっていた。
仁王は、柳から受け取ったアルバムの一番最後のページを開くと机の上に置いた。この先には、丸井も先程気にしていた続きとなるページがあるはずだった。
彼はケースから薄い呪符を一枚取り出し、皆に少し離れているように告げてから、それをページと裏表紙の隙間に差し込み、端から端まで素早く滑らせる。
同じ動作を繰り返す度に呪符は黒く染まっていき、最終的には元々が黒い紙であったのかと思うほどまでにその色を変えた。
彼はそれをケースの中にしまうと、ゆっくりと綴じ込まれていたページを捲った。
次の瞬間、息を飲む全員の声が響き渡る。
「これは……絵の具、じゃないみたいだね」
口元を手で覆ったまま、幸村はそう漏らしてちらりと藤ヶ谷の方を見た。
ページの殆どを埋め尽くす色褪せた茶褐色は、全員に嫌でも一つの答えを連想させる。
「まず藤ヶ谷の血じゃろうな。恐らくジョーカーが藤ヶ谷自身に呪文を書かせて、ご丁寧にも無理矢理こじ開けたら、そいつが痛い目を見るように更に血で封をした……悪趣味も良いとこじゃ」
青褪める丸井を横目に血に染まったページを見下ろしながら、仁王は忌々しげに吐き捨てる。
それから新しい呪符をもう一枚取り出すと、仁王は同じく鞄から引き抜いた携帯用のカッターナイフで躊躇なく自身の指先を浅く裂いた。
全員が彼の行動に驚き声を上げるが、彼は視線だけでそれらを遮る。
仁王は血が滲んだ指先で呪符に更に一つ文字のようなものを書き加えると、アルバムの上に写真を重ね、それに血文字部分を伏せて呪符を置いた。
しばらくすると呪符が青く燃え上がり始め、その炎がアルバム全体を包み込んでいく。
「これで、藤ヶ谷に還る分の殆どは抑えられるはずじゃ」
変化は突然現れる。
赤いアルバムがみるみる黒く変色したかと思うと、その形がぼろぼろと崩れていく。
やがて炎が収束した頃には、黒い砂のように変わり果てたその姿だけが机の上には広がっていた。
「……終わったのか?」
押し黙る皆の代わりに柳が尋ねると、仁王はあぁと頷いた。
「藤ヶ谷は、起きるまでもう少し時間がかかると思うが、赤也の方はもう写真に写っとった1-Cに戻っとるはずじゃ。迎えに行ってやらんとな。幸村、そろそろ真田とジャッカルもこっちに呼び戻してくれ。俺とそうじゃな、丸井手伝ってくれ」
未だに机の上を見つめていた丸井は、指名に黙って頷くと、仁王に続いて美術室を足早に出て行った。
仁王よりアルバムの残骸には一切触れるなと言われていたため、唯たちは遠巻きのまましばらくそれを眺めていた。
教室の扉ががらりと開いた音に、切原はひっと声を漏らして肩を躍らせた。
意識の戻った藤ヶ谷が、何の前触れもなく制服のポケットに忍ばせていたライターで教室に火をつけたのは、つい先ほどのことだ。
何がそんなに燃えるものがあったのか、瞬く間に広がった炎と、得体の知れない雰囲気を纏う藤ヶ谷から切原は逃れようとしたものの、あっという間に教室の隅へと追いやられ、ここまでかと腹を括った瞬間、なぜか炎も藤ヶ谷も彼の目の前から忽然と消えたのだ。
そして、間髪入れずに固く閉ざされた扉の開く音。一体今度は何が起きたのかと、恐々と視線を向ければ、切原の瞳がいよいよ潤んだ。
それでも彼は、はっとして慌てて二人から距離を取る。その様子に、二人は顔を見合わせて苦笑を漏らした。
「そんなに先輩を疑わなくとも良いじゃろう」
「何だ。思ったより元気そうじゃねーか」
「仁王先輩? 丸井先輩?」
中々近寄ろうとしない切原に、仁王が扉の前に立ったまま簡単に事の顛末を話すと、彼はようやくほっとしたのか表情を緩め、次の瞬間にその場へと崩れ落ちる。
二人が慌てて駆け寄り切原の顔を覗き込めば、先程の威勢はどこへ行ったのか、その瞳はぼんやりとして定まっていない。
「赤也の奴、大丈夫かよぃ?」
「相当、身体と精神には堪えたとは思うが、この様子なら大丈夫じゃ」
最早眠りにつくという寸前で、切原は何かを思い出したのか、目を見開いて仁王の腕を必死に引いた。
訝しげな表情の仁王に、彼は睡魔に抗うように掠れた声を絞り出したあと、とうとう目蓋を閉じる。
「もう一人、いたんスよ。左利き。あいつだ。無川先輩の絵を切ったのは、城咲先生だ」