
「……一体何がどうなってんだ?」
扉に手をかけたまま、切原は困惑した表情でそう漏らした。
彼がいくら力を込めようとも扉はびくともせず、今や二人は完全に教室内に閉じ込められた状態になってしまっていた。
そのことに切原が気付いたのは、炎から逃れて少し時間が経ってからだ。
こうして難を逃れた安堵感からか、藤ヶ谷を連れての全力疾走による疲労を今頃になって顕著に感じていた。
それでも、ようやく切原が移動する決意を固め、これまでと同様に飛び込んだ扉とは別な方の扉から別な場所へ出ようとしたが、頑なに扉は閉ざれてしまっていたのだ。
試しに飛び込んできた方の扉も確認してみたが同じだった。
「意味分かんねぇし」
ずるずると壁伝いに座り込んだ切原は、そのまま膝を抱えて顔を伏せる。
(これじゃ、今度襲われたら、どこにも逃げらんねーじゃん)
再び炎が襲い来る気配は感じられないが、完全に気を失った人間を担いで逃げるのは、いくら切原でも限界がある。そもそも、こんな狭い教室では逃げる場所も隠れる場所もない。
正しく今の状況は、彼にとって八方塞がりになってしまった状態だった。
「まさか、窓が開くオチじゃねぇよな?」
ふと思いついた考えが口をついて出た切原は、伏せた瞳を開く。
すると、眼前に陰りが落ちていることに気付いて視線を上げた。
いつの間に起きたのかと驚く彼の瞳とまだ少し夢見心地のような彼女の瞳が交錯し、一瞬押し黙った切原だったが、やがて恐る恐る口を開いた。
「……藤ヶ谷先輩?」
目の前で起きた唐突な変化に、丸井は目を輝かせて見入っていた。
鏡が嵌め込まれていた場所に、突如として唯たちの姿がおぼろげにだが写り込んだためだ。
「まず、ここまでは順調じゃ」
仁王が手を伸ばせば、触れた指先から波紋が広がるように像が歪んだ。今やフレームには、鏡の代わりに薄い膜が張り巡らされ、そこを隔てた向こう側に唯たちが立っている。
だが、彼の手がそこを超えることはなく、ただ悪戯に掻き乱される像に丸井と柳は揃って息を飲んだ。
「まだ、少し足りんみたいじゃな。このくらいなら……」
向こう側からも仁王たちの様子を見ることが出来たようで、唯も必死に彼らに向かって手を伸ばしていたが、同様に潜り抜ける気配はなかった。
仁王はこの状況について予め想定していたらしく、手早く自身と唯の髪の残りを使って編み上げたものをもう一つ作ると手首に結びつけた。そして、唯に同じものを作れと指示を出すが、彼女は大きく首を横に振る。
声も向こう側へは届かないことを理解した彼は、今度はゆっくりと口の動きで唯へと繰り返せば、どうやら今度は上手く伝わったようで、彼女もまた同じくシュシュから仁王の髪を引き出し始めた。
彼女が作業をしている間に、仁王は更に同じものを二つ作ると、二人の手首にも結び付けた。
その一連の様子を不思議そうに見つめていた柳が口を開く。
「仁王、一体これは何の意味があるんだ?」
「無川と俺が鏡の媒体になる。これで、向こう側と完全に繋がるはずぜよ。もって数分だが、通り抜けるだけなら十分じゃ」
右手を鏡の表面に押し付けたまま仁王が唯を促すと、彼女もまた彼の手に添えるように手を重ねた。
その瞬間、激しく波打っていた像はぴたりと動きを止め、ぼやけた像までもがより鮮明なものに変わっていく。
「これで通れるはずぜよ。先に丸井から……っ!」
仁王が突然自身の胸の辺りを強く押さえた。彼の手が離れたことで像は再び揺らぎ、それを見た向こう側の唯が酷く慌てたように何かを叫んでいる。
彼が胸元にしまっていた写真を取り出せば、何の変哲もなかったそれの一端より細く煙が立ち上り始めた。
「え? 仁王、どういうことだよぃ!」
「藤ヶ谷ぜよ。きっと中で火を付けたんじゃ」
仁王の言葉が良い終わらない内に写真全体が勢い良く燃え上がり、反動で彼の手から逃げるようにするりと抜け落ちた。
その向かう先に気付いた仁王が、素早く手を伸ばすものの僅かなところで届かず、写真は不規則に舞い落ちながら左下のフレーム部分に触れた。すると、一瞬のうちに炎がフレームへと這い上がる。
チッと舌打ちをした仁王は床に落ちた写真を拾い上げ、燻る炎ごと両手で写真を勢い良く挟み込んだ。
じりという音と共に炎は掻き消えたものの、仁王の両方の手の平にはまるで青痣のような奇妙な染みが広がっていた。
「こっちはもう止められん。早く抜けるぜよ」
唯たちの居る向こう側でもこの異変は反映されているらしく、三人が狼狽えている。
仁王が再び鏡に手を添えると、手の平の様子を見た唯は一瞬目を大きく見開いたが、すぐに彼に倣って手を置いた。
鏡に燃え移った炎は、じわじわと確実に広がっている。
初めに藤ヶ谷を背負った丸井が、次いで柳が鏡を越えた頃には、既に鏡の下半分ほどが炎に包まれていた。
「……つくづく気に入らん奴じゃのう」
最後に残った仁王は、一人そう呟くと、炎を飛び越えるようにして鏡の中へと滑り込んだ。