カレイドスコーピオ

インビジブル

08.小さな部屋 / 36

 気が付けば、定期的に主張していた扉を引っ掻く音は消え、その代わりに室内には勢い良く鉛筆が紙面を走る音だけが絶え間なく響いていた。

「……すごいですね」
「そっか、柳生は初めて見るんだ。俺も、最初は本当に驚いたよ」

 すぐ近くで繰り広げられる遠慮がちな二人の会話が、今の彼女の耳に届くことはない。
 一面、白色のみが広がっていた紙面には、彼女の手によって刻まれた一つの大きな像が浮かんでいた。
 主線や細部の書き込みはシャープペン、濃淡は鉛筆と言った具合で立体感を出しているそれは、少し離れたところに立っている幸村と柳生の記憶にも新しいものだ。
 彼らの目の前にあの鏡が、少しずつその姿を現していた。
 カランという音を立てて、鉛筆が彼女の手から零れ落ちる。床で軽々と弾んだ鉛筆が紙の外側へとゆっくり転がった。
 視界の隅で芯先が折れたことを確認したは、そのまま拾わずに新しい鉛筆へと手を伸ばせば、彼女の代わりにと柳生が折れた鉛筆を拾い上げ、机の上に置いてあった鉛筆削りで使い易いように尖らせると、再び群れの中に戻した。
 もう既に彼女が作業を始めてから何度繰り返されたか分からない行為だったが、鉛筆を替えてからまもなくして、が再び鉛筆を取り落とした。
 どうしたのかと柳生が視線を向ければ、がしきりに手の平をマッサージするように揉んでは、じっと両の手の平を見つめている。
 慣れない左手での作業は、予想以上に彼女に負担を強いているのだろう。

「お疲れではないですか?」
「えっ?」

 柳生の声に、は二人の存在そのものをすっかり失念していたのか、驚いたようにぱっと顔を上げた。
 慌てて鉛筆を手に戻し、彼女は小さく謝罪の言葉を口にした。

「もう、完成でしょうか」
「いえ、柳生くん。まだ完成とは言えません」
「これでもまだなんですか? ですが……」

 そう言って窓の方へ視線を滑らせた柳生に続いて、も空を見た。
 空に薄くかかった雲を縁取るように濃い影が落ちている。夕暮れが近い証拠だ。
 いつの間にかこんなにも時間が経っていたのかと、彼女が今度は時計を見やれば、既に十七時半を過ぎていた。

「もう、こんなに時間が……」

 にわかに拍動が上がるのを感じた彼女は、ぽつりと呟いて急速に冷えていく指先の体温を確かめるように握り締めた。
 確かに柳生の言う通り、今足元に広がる絵はあの砕けた鏡をすぐに連想させる仕上がりになりつつある。

(……駄目だ。似てるだけじゃ、全然足りない)

 仁王から頼まれたのは、表面だけをなぞった平面的なものではなく、あの鏡そのものを再現することだが、絵はまだ完成には程遠い。描き込まなければならない箇所はまだまだ多くある。
 この中で少なくともそれが可能なのは、自分だけなのだと言うのは彼女自身も良く理解していた。
 は鏡に関する記憶をもう一度手繰り寄せるが、像を結んだそれは先程とは異なり容易に解けてしまう。
 斜陽は確実に彼女を追い詰めている。こんな作業はそもそも初めてであり、絵画展への作品制作の時ですら味わったことのない緊張感がを薄く覆っていた。
 間に合わないかもしれないとそんな思考がちらりと彼女の頭の片隅に浮かび、払拭するように鉛筆が紙面をなぞる。

「ねぇ」

 必死に集中しようとする彼女には、幸村の呼びかけにすら気づけていない。
 やがて、が三度取り落とした鉛筆を彼女よりも彼が先に拾い上げたことで、ようやく二人の視線が絡んだ。

「俺が直接やってるわけじゃないから、説得力はないかもしれないけれど、大丈夫だよ。まだ、時間はある」

 彼の声が、の思考に釘を打った。
 そして、繰り返し言葉の意味を確かめるように彼女は反芻する。

「大丈夫。焦らないで」

 もう一度重ねられた言葉に、は軽く息を吐き肩の力を抜いた。すっと頭が冴えていくような感覚はいつも寄り添っているものと相違ない。
 彼が差し出した鉛筆を受け取った彼女は、改めて扉と対峙する。
 描いた虚像をすいと細めた瞳で辿り、輪郭を確かめるように指先が鏡に触れる。
 言い知れぬ張りつめた空気が包み込んだ美術室内に、再び彼女の鉛筆を走らせる音が満たされていった。

 静かに鉛筆が置かれ、彼女が長くため息をつく。
 汚れた両手を拭いながら窓の外を見た彼女は、大分陰りが見え始めた様子に驚いた声を上げた。
 改めて時計を確認すれば、既にあれから一時間ほどが経過していた。

「出来ました」

 そっとが呟いてみるが、近くにいるはずの二人が何も反応しないことに不思議に思い、どうしたのかと視線を寄せる。
 二人は変わらず黙って立っていた。彼女がおずおずと声をかけると、ようやく口を開く。

「改めて見ると、本当に凄い集中力だね」
「この短い時間で、良くここまで……」

 感嘆を漏らす二人の視線の先には、彼女が絵がある。
 モノクロ画で再現されたそれは、近くよりも二人が立つ少し離れた場所から見る方がより際立つように仕上げられ、砕けた踊り場の鏡そのものにすら錯覚するほどだった。

「これを記憶だけで描かれたんですか?」
「はい。模写は一応得意なんです。それに、この前の柳生くんのこともありましたし、気を付けて見てはいたんです。まさかこんなところで役に立つとは思いませんでしたけど」

 模造紙を机の上に移動し、は室内を見渡す。

「あの辺りが良さそうですね。手伝ってもらえますか?」
「勿論。もう少しだね。まだ、少し早いけど、本当にお疲れ様」

 幸村に向かって口を開きかけただったが、寸前で思い止まり彼女は小さく頷く。
 そして、いよいよここからが本番だと、髪を束ねていたシュシュを解いた。

2013/05/08 Up