カレイドスコーピオ

インビジブル

08.小さな部屋 / 32

「頼むから、ちゃんと走って下さいよ!」

 振り返りざまにそう叫ぶように言った切原は、思わず吸い込んでしまった熱を帯びた空気に軽く咳込む。
 伸ばした彼の腕の先にいる彼女は、半ば引き摺られながらその歩みを進めていた。

「あーもう! 次から次に! 一体俺が何したってんだよ! しっかりしろって! 藤ヶ谷先輩!」

 全く手ごたえのない彼女への彼の一方的なやり取りは、美術室を飛び出した直後から続いている。
 それは、藤ヶ谷と遭遇してすぐに起きた。
 切原の後方にある準備室の扉の先から、やけに焦げ臭いような匂いがしていることに気付いた切原が振り返り覗き込んでみると、“あの人”の姿はどこにもなく、代わりに火の海が広がっていた。
 それは瞬く間に周囲の物へと燃え広がり、出口を求めて切原の立つ扉の方へと矛先を向ける。
 咄嗟の判断で扉を閉じたが、中から今度は何かが爆発するような激しい音が彼の耳を叩く。そう言えば視線の先にあった棚にカラースプレーの缶が並んでいたことを思い出しながら、いよいよ非常に良くない状況に陥ったのだと彼は焦り始めた。
 とにかく美術室から出なければと駆け出した時に、視界の隅に映ったのは藤ヶ谷だった。
 彼女は相変わらず美術室の扉を一心に見つめていて動く様子がない。そうしている間にも、準備室の扉の隙間から白い煙が這い出してきていた。
 切原は、藤ヶ谷に逃げるよう声をかけたが、やはり彼女は反応しない。
 たとえ、ここが虚構の世界だったとしても、だからと言って見知った人が煙の中に飲み込まれるのを見過ごすほど、この状況を割り切れていない切原は、結局、立ち尽くす藤ヶ谷をこうして無理矢理牽引して廊下を疾走することになったのだった。

「なんつー早さだよ。俺、マジで死ぬかも……」

 緊張から来るものではなく、生理的に浮かんだ額の汗を拭いながら、切原は藤ヶ谷の背後へ視線を向けた。
 炎は、まるでそれは生き物のように彼に向かって迫り来る。
 どこへ逃げれば良いのかなど、切原には分からない。ましてやこんな状況にも汗一つ浮かべていない、表情の消えた藤ヶ谷が教えてくるはずもなく、ただ、我武者羅に炎から逃げるしかなかった。
 滑るように階段を駆け下りていると、藤ヶ谷が体勢を崩した。咄嗟に彼女の身体を支え、自身も含め転落は免れたが、ガシャンと嫌な感じの金属音に彼がそろそろと数段下の階段へ視線を向ければ、その途中にカメラが落ちていた。
 レンズが天井を向いた状態で叩きつけられたそれは、切原の立つ位置からも本体やレンズにひびが入っているのがはっきり見えた。
 彼が言葉を発するよりも先に、纏わりつくような熱風が肌を舐め、振り返った切原の視界にうねった火柱が見えた。
 逃げる最中に防火扉を閉めたが、どうやらその役目は全く果たさなかったらしい。それは、校内の至る所に備え付けられている火災警報装置にも言えることで、彼が叩きつけるように押したボタンも一切反応しなかった。
 階段を駆け下りながら切原はカメラに手を伸ばす。だが、それは彼の指を僅かに掠めただけだった。
 勢いを止められずにそれから数段降りたところで、ほんの一瞬足を止めた切原だが、すぐに思い直し足を速める。その途端、それまで恭順だった藤ヶ谷が切原を引き留めた。
 その力に切原は内心驚いたが、構わずより強く彼女の腕を引く。

「藤ヶ谷先輩、止まっちゃ駄目だ。追いつかれちまう!」

 無理矢理彼女を引っ張りながら、切原は防火扉を強く蹴った。反動でゆっくりと壁からそれが剥がれ廊下を塞いでいく。
 その向こう側から炎が益々勢いを増して燃え上がるさまがはっきりと見えた。

「……マジかよ」

 防火扉に炎が触れた途端、溶け落ちるように扉があっという間に燃えていく。
 その光景を見た切原は、未だに階段の方に向かって走ろうとしている藤ヶ谷を抑え込みながら途方に暮れた。
 いずれ追いつかれるのも時間の問題だろう。
 こうなれば賭けに出るしかないと、切原はすぐ近くの教室の扉に手をかけた。そして、するりと抵抗なく開いた室内へと飛び込む。
 縺れ込む体勢になりながらも藤ヶ谷を庇いつつ床に崩れ落ちた彼は、必死に起き上がると開いたままの扉を閉じた。
 炎の様子から、まもなくここもそれに飲み込まれるはずであり、切原は衝撃を覚悟してぎゅっと目を瞑った。
 ところが、炎が迫ってくる様子はなく、そろりと目蓋を押し上げて扉の擦り硝子越しに廊下の様子を見た切原は、賭けに勝ったことにひとまず安堵した。
 廊下は一転して静まり返っていた。あれほど感じていた熱気も今やすっかり引いている。
 切原は大きくため息をつきながら床に転がり、全身の力を抜いた。
 ひんやりとしたリノリウムの床が、火照った肌にはとても心地が良い。

「あー制服、どうすっかなー」

 煤で所々が汚れた袖を見て、切原はこんなことを考えられる思考がある内は、まだ大丈夫だと思わず苦笑する。
 とりあえず難は去ったが、かと言っていつまた襲い来るか分からない。いつまでもここでじっとしている訳にもいかなかった。

「藤ヶ谷先輩、とりあえず移動しましょう……って、このタイミングッスか!?」

 一息ついてようやく彼女の様子を確認した切原は、違った意味で更に面倒な事態になったことにがっくりと肩を落とす。
 隣に同じく身体を横たえている彼女の頬を切原は恐る恐る軽く叩く。それでも反応は一切なく、完全に気を失っているようだった。
 ここまで来て、今更彼女を放置していくなどよもや無理な話で、体力に自信があるのが幸いだと、切原は彼女の身体を背負い上げ、このどこまでも続く迷路の中に再び身を投じることに決めた。

2013/04/29 Up