カレイドスコーピオ

インビジブル

08.小さな部屋 / 31

 始めの方こそ律儀に数えてみたりもしたが、途中からはどのくらいの扉を潜り抜けたのか、彼自身にも全く分からなくなっていた。

「……くそっ。いつになったら、美術室に着くんだよ」

 思わず悪態をついた切原が今いる場所は、夕暮れ色に染まる教室だった。
 この空間が、一体どのような意図を持って作られたのかについて切原自身もいまだに想像も出来なかったが、それでもここに来て幾つかの法則があることに気が付いていた。
 まず、切原がこれまで彷徨い歩き、出会った数々の情景は、いずれもが校内だった。
 また、空間同士は少なくとも扉を介して繋がっており、一つ一つの空間面積はそこまで広くはない。
 この教室を例にすれば、切原は今しがた前方の扉から室内に入ってきた。次に後方の扉から廊下に出ようとすれば、きっとまた校内のどこか別な場所に繋がっているのだろう。
 そして極めつけに、遭遇する場面は、時間帯どころか年月自体にすらばらつきが見られることだ。
 切原がそのことに確信を持ったのは、他でもないこの教室に訪れた時だった。
 教室に足を踏み入れた時、これまでとは一転して夕暮れに影を落とす情景に変わったのは勿論そうだが、この教室がどこであるのか理解した瞬間、彼は更なる衝撃を受けることになる。
 始めこそ、どこかの教室だろう程度に思っていた切原は、扉の上方にはめ殺してあった硝子窓から、教室の室番プレートを確認した。
 『1-C』という表記に、彼は記憶が揺さぶられる気がして室内をぐるりと見渡す。

「あ、俺、去年この教室だった」

 一人呟けば、脳内には湧き出る噴水のように記憶がいちどきに浮かび上がってくる。
 懐かしさに、当時自分が座っていた廊下側の前から二番目の席まで移動した切原は、何となしに椅子に腰を下ろした。
   机の横には、まだ鞄がぶら下がっていた。指定のスクールバックは男女ともに共通であるため、持ち主の性別までは分からない。
 つい好奇心から机の中に手を伸ばしてみる。掴んだ教科書を引き出した時、目に飛び込んだ『切原赤也』という、紛れもない自分の筆跡に彼は驚いた。
 慌てて鞄へと手を伸ばし躊躇なく中を覗き込む。無造作に放り込まれた生徒手帳が見つかり、はやる気持ちを抑えて生徒氏名欄と写真を確認すれば、やはりそこには一年の時の切原がいた。
 これは一体どういうことなのかと考える間もなく、廊下から数人の声が近づいてきていると気付いた切原は、生徒手帳を鞄へと戻した。
 声の主の目的がこの教室だと理解して、慌てて扉へと寄る。擦り硝子に自分の姿が映らないように姿勢を低くして、慎重に鍵を下ろす。
 やがて、声が扉の前で止まったかと思うと、予想通りガチャリと扉が音を立てた。

「あれ? 鍵かかってる」
「げ、マジ?」

 初めの声は国舘のものだ。そして、続いたもう一人の声も、勿論彼が知らないはずもない。
 今度は国舘の声が後ろの扉の方へ移動する。
 切原は一瞬焦ったが、どうやらそちらは元々鍵がかかっていたらしく、国舘はすぐに戻ってきた。

「先生が鍵かけたんじゃね? どうする、切原?」

 ぴくと思わず身体が反応したが、国舘に答えたのは彼の隣に立つもう一人の彼自身の声だった。

「職員室行くの面倒臭ぇなぁ」
「早く部室行かないと、幸村副部長に怒られるぜ」
「うーわーそれはもっと面倒だな。しゃーない。行こうぜ、国舘」

 足音が響く。そうして、二人が完全に去ってから、切原はその場に座り込んで大きく息を吐いた。

「……ホント、マジいつ終わるんだよ。疲れるっつの。あーもう動きたくねぇ」

 そうは言ってみたものの、このままここにいれば再び一年の切原と邂逅するのは目に見えている。
 切原はもう一度ため息を零してから重い腰を上げると、後方の扉へと向かった。

「……あ」

 更にいくつもの扉を潜り抜けて、さすがに疲れが顕著に出始めた頃、唐突に美術室へ繋がっている廊下へ出た瞬間、切原は思わずその足を止めた。
 振り返れば、そこには彼が異変へと首を突っ込むきっかけとなった教室の扉がそびえ立っている。思わず扉に手をかければ、今度はしっかりと鍵がかかっていた。
 帰ってこれた安堵感はすぐに脱力感に変わる。
 切原は、ずるずるとその場にへたり込み、肺の中の全ての空気を押し出すような深いため息をついた。ところが、時刻を確かめる為に取り出した携帯電話を見て愕然とする。
 ディスプレイには『99:99』という有り得ない数字が表示されていたのだ。そして更に、ボタンを幾ら押しても、あらゆる操作を受け付けず、電源の入れ直しすら出来なかった。
 それは、未だ事象がまだ終わっていないことを彼に知らしめるには十分な材料だった。
 携帯電話を思わず床に取り落とした切原は、いよいよ顔を伏せる。ここに来て、急激に疲れが彼の全身を襲った。

「ふざけんなよ……」

 精一杯の悪態を叩きつけてみるが、静かな廊下にただ反響するばかりだ。
 いっそここでふて寝でもしたら何か変わるかと、投げやりになった思考はそれでも、もうすぐ近くにずっと求めていた美術室があるという希望に一瞬にして拭われる。
 ここまで来たら何が起きてももう驚かないと切原は思い直し立ち上がると、全速力で美術室の扉の前まで走った。
 また違う空間に繋がっているかもしれないその扉を彼は躊躇なく開く。

(え?)

 広がっていたのは、切原の覚悟に反して何ら変わりのない美術室だった。
 だが、視線の先には、彼も既知の人物がいた。相手は切原が派手に扉を開いたにも関わらず、彼の存在に気が付いていないようだった。
 やがてその姿は、ゆっくりと準備室へ消えていく。
 なぜか追わなければという焦燥に駆られた切原は、なるべく足音を立てないように準備室の入口へ近づいた。
 半開きになっている隙間から中の様子を覗き込んだ彼は、呆然と立ちすくむ。

(どうして、あの人が?)

 その時、背後から気配を感じた切原は振り返り、そこに立っていた藤ヶ谷の姿に目を見張った。
 彼女は無表情のままじっと見据えている。ところが、彼女の視線が向けられている先は、切原をすり抜けたその向こう側だ。その先には、“あの人”が立っている。
 彼女の瞳は、切原の姿を捕らえていない。
 しばしの間、奇妙な対峙が続いたかと思うと、藤ヶ谷がおもむろにカメラを構えた。
 切原にも見覚えのないそれが、フラッシュと共に輝く。それでも、背中越しの“あの人”が反応を見せる様子はない。
 眩しさに切原が目を細めれば、言いようのない既視感に襲われた。
 この痛みも感覚も、前にそれもごく短い期間に経験したことがあると、視野の一部が明滅する気持ち悪さに目を擦った。
 その瞬間に、あの時、廊下の曲がり角で感じた眩暈の原因がこれだったのかと理解して、切原は自分が一体どこにいるのか何となく分かったような気がした。

2013/04/27 Up