
扉を引っ掻く音は一向に止む気配はないが、今の彼女の耳にそれは全く入らなかった。
この美術室の中へ“それ”が入って来ることは決してない。
それは仁王に言われたからだけではなく、彼女の中でも同様に確信めいたものがなぜか渦巻いていて、唯は二人には聞こえないほどの小さな声で、入って来るなと呟いた。
「とりあえず、使えそうな物はこれで全部かな。勝手に丸井たちの鞄開けちゃったから、後で謝らないとね。柳生の方はどうだい?」
「こちらも室内にあったのはこれが全てです。それにしても、仁王くんの鞄だけは何故かどこにもありませんでしたね」
「ふふ、よっぽど俺たちに見られるのが嫌みたいだね……無川さん、どうかな、出来そう?」
「正直やってみないと分かりませんが、これしか方法がないのなら頑張ります」
唯は唯で準備室より必要な材料を調達している間に、幸村と柳生が机を移動していたため、美術室の中央部分にはひらけた空間が出来上がっていた。
そしてその床の上に、彼女は模造紙同士を糊で繋ぎ合わせ一枚に仕立てた紙を広げていく。その大きさは彼女の背丈よりも随分と大きく、すっぽりと全身が覆われてしまうほどだった。
その傍らには、彼らが集めた幾本もの鉛筆やシャープペンシルが置いてある。美術部の備品でもあるデッサン用のものから、唯を始めとした幸村たちの私物から拝借したものまでそれは多岐に渡る。彼女の意向で、ボールペンなどのインク製の筆記用具は避けられていた。
彼女はその中より、削ったばかりのデッサン用鉛筆を一本選び右手に握った。ところが、その刹那、手の甲を走り抜けた痛みに思わず取り落とす。
二人が驚いたように声を上げるのを彼女は首を振って制して視線を下げた。
手に巻かれた白い布は柳生のハンカチを裂いたものだ。
美術室に消毒液は当然ないものの、資料として保管してあるテンペラ画専用の顔料を溶くための精製水が、準備室の冷蔵庫にあったことを思い出した唯は、水道水よりは良いだろうと幸村と共に取り急ぎそれを使って傷口を洗浄した。
そっと確かめるようにハンカチの上から傷口に手を置いてみるが、改めて血が滲んでくる様子は見られない。
試しに軽く指を握り込めば、今度は動きに合わせて皮膚が引き攣る違和感を覚えた。
無理を強いれば容易に傷口が開くだろうと彼女は諦め、正直気乗りはしないが左手に持ち替えると白い紙面に視線を落とす。
まっさらなその白は彼女の神経を刺激し、研ぎ澄ましていく。
すっと軽く息を吸い込んでから、彼女は靴を脱いで紙の上に膝立ちになった。指先で紙の状態を確かめ、試し描きとして鉛筆を走らせる。
スケッチブックに描くのとは、紙の厚さもカーボンの引っ掛かりも全てが全く異なる感触で、正直良い条件とは呼べない。そう思った彼女は、じっと瞳を閉じ、意識をより深いところまで寄せていく。
淡い闇が彼女を覆う。その中に漫然と立ち尽くす唯の目の前に、細く白い煙が立ち上った。続くように二本、三本と互いに絡み合いながらやがて小さな靄となり急速に質量を増していく。
あっという間に彼女の背丈を超えて広がったそれが、徐々にその形を成していった。そうして一通り出来上がったあと、今度は一面の白色の色彩の所々から色が滲み出て広がっていき、彼女の曖昧なイメージがみるみるうちに鮮明なものへと変貌した。
唯は、あの鏡の前に立っていた。
フレームについた傷や僅かなひび割れ、欠損を始めとして、鏡面には唯の全身が映っている。
これらの全てが彼女の記憶を基に練り直されたイメージであるものの、その再現性の精度は確かなもので、鏡が結ぶ微妙に歪んだ像すら本物と寸分の違いもない。
伸ばされた彼女の片方の手が、鏡面にひたりと添えられた。手の平全体から氷のように冷たい温度が伝わる。もう一方の手が、今度はフレームに宛がわれ、その感触を確かめながら移動していく。時折ささくれ立った部分が、悪戯に彼女の手を刺激した。
(大丈夫。出来る)
瞳をゆっくりと開いて、唯はもう一度紙面を見つめる。
幸村と柳生は、そんな様子を少し離れた場所から見守っていたが、今の彼女の視界に彼らが映ることはない。
「仁王くんは、“逢魔が時までがリミット”だって言ってました」
「今の時期ですと、日没はおおよそ十八時から十九時にかけてです……厳しいですね」
柳生が壁の時計を確認して声のトーンを落とした。
大目に計算したとしても、彼女に許された時間は既に三時間ほどしかなかったのだ。
「集中するので、もし何かあったら、すみませんがお願いします。絶対に間に合わせます」
今回は不本意ながらも左手を使うと決めたことで、唯にはこの決して十分ではない時間でも描き上げる自信が湧き上がっていた。
彼女の意識は未だに鏡を捕らえ揺らがない。
そして唯は、二人の答えを待たずに鉛筆を紙に勢い良く走らせた。