
右の手の甲を何かが掠ったという感触を覚えてから少し遅れて、かっとその場所が熱を帯びた。
どうしたのだろうかと、唯が何の考えもなしにその場所に触れた瞬間、ぬるりとしたものが指先を湿らせる。
それでも、小さく呻く声と、床に断続的に叩きつけられる神経質な悲鳴にも似た尖った音に、彼女はその色彩を確認することなく反射的に彼の元へ駆け寄っていた。
歩を進める度にジャリジャリという嫌な音がやけに唯の耳にこびり付く。
「ゆ、幸村くん。大丈夫!?」
壁伝いに崩れ落ちるように凭れこんでいた幸村は、彼女の声に固く閉じていた瞳を開く。彼は視界が開ける前に自身が置かれている状況について理解したのか、みるみる内にその表情を蒼白にした。そしてそれは、唯も柳生も同様だった。
三人の視線が、ゆっくりと鏡に向けられる。幸村の身体の上に散らばった小さな破片が滑り落ち、床の上で弾みながら砕けた。
「……あ……」
かろうじて空気を震わせたのは誰の声か。
影喰が最後に狙いをつけたのは幸村で、体当たりをまともに受けた彼は、体勢を崩し後方へと倒れ込んだ。
直後に柳生が、ダーツを使い影喰を直接地面へと縫い止めることに成功したものの、幸村の身体は強かに鏡へと打ち付けられ、唯たちの目の前で鏡はいとも簡単に割れ落ちてしまったのだ。
「そ、んな……」
床に散らばる鏡片の一つを唯は呆然と見つめていた。手の甲の熱さは既に引いていたが、今にも伝った血が滴り落ちそうになっていることにすら彼女は気付かない。
やがて、かろうじてフレームに引っかかっていた破片がまさに滑り落ちる瞬間、彼女は弾かれるように鏡へと手を伸ばした。
鋭いそれにまもなく指先が触れるかというところで、柳生が咄嗟に彼女の腕を掴み引き留める。
ガチャリと一際大きな音を立てて、唯の足元にまた鏡片が広がった。
「触れては危険です。それに、血が出ています。幸村くんもご無事ですか?」
「あぁ、俺の方なら大丈夫。無川さん、手が……」
失礼しますと言って、柳生が唯の右手を取る。
白いハンカチが手の甲へ添えられ、じわりと赤い円が滲み出したのを見て、彼女は初めて自覚した痛みに表情を歪ませた。
「飛んだ破片で切ったんだね。傷を見せて。良かった。思ったより切れてないみたいだ」
「えぇ、ですがお二人とも、後ほどきちんと手当をした方が良いですね」
幸村が唯の傷の様子を見て安心したように表情を和らげる。
見れば彼の手にも破片で切ったと思われる幾つかの浅い裂傷が見えた。
「……どうしよう。鏡がなくなったら、仁王くんたち戻ってこれないかもしれない」
今やフレームだけになってしまった空っぽの鏡を見つめて、唯が震えた声を絞り出せば、二人も表情を曇らせた。
幸村は謝罪の言葉を口にしかけてそれを飲み込む。この先転がり出る言葉の全ては、少なくとも自体が好転するような内容ではないと思ったためだった。
彼は少しの間を置き、呼吸を整えてから落ち着いた声で彼女に尋ねた。
「ねぇ、ここの鏡以外に出入り口になるような場所はないのかな? 例えば他の鏡とか」
「詳しくは教えてくれませんでしたが、仁王くんは、“この鏡は特別だった”って言ってました。だから代わりはないと聞いてます」
弱々しく唯は答えると、赤く滲む手の甲へ視線を落とした。
ぴりぴりとした痛みは若干あるものの、幸村が言うように浅い傷らしく、血も既に止まっている。
「恐らく影喰のそもそもの目的は、私たちではなくこの鏡だったんでしょう……もう、姿がどこにも見えません」
柳生が床に突き刺さったままのダーツを引き抜く。
彼の言うように、壁の二本のダーツも同じく捕らえたはずの影喰の姿は、いつの間にかそこから消え失せていた。
そして、ダーツのポイント部分が、まるで腐食したように黒く変色していた。壁に近寄り引き抜いたダーツを見つめていた幸村は、ケースにそれらを仕舞うと、足で大まかな硝子の破片を壁際へと寄せた。
「こういうことが起きるかもしれないって仁王も言ってたけど、ちゃんと考えがあるみたいだったからきっと大丈夫だよ。それより、これ以上ここにいても、俺達にはもう何も出来ないね。美術室に行こう。無川さんは仁王の携帯にかけてくれるかな。俺は弦一郎に連絡する」
まるで自分を説得するような口ぶりで幸村が吐き出せば、二人も同意するしかなかった。
「幸村くん。美術室へ行く前に、保健室へ消毒薬を取りに寄っても良いでしょうか」
「いや、真っ直ぐ向かった方が良い気がする。俺は全然平気なんだけど、無川さんは我慢出来る?」
「はい。大丈夫です。私もその方が良いと思います。また影喰が襲ってきてもダーツはもう使えないでしょうし」
話はまとまり、三人は不測の事態が発生した場合の集合先と決めた美術室に向かうことになった。
そして、唯は階段を降りる寸前に鏡の方へ振り返った。
塞ぎ込んでいた太陽がタイミング良く姿を見せ、鏡の破片の乱反射した光が、まるで万華鏡のように幾重にも重なって天井に映し出されている。
こんな状況下であるにも関わらず、不謹慎にも彼女はそれが綺麗だと感じていた。