
この気配には心当たりがあった。
咄嗟に唯が柳生の方を見れば、彼もまた同じような瞳で彼女を見返していた。
「……何だろうこの感じ? 何か、いる?」
幸村が周囲をしきりに見渡して声を抑えながら唯に尋ねた。
気が付けば、踊り場はより一層明るさを失い、誰の目にも異様な雰囲気にいつの間にかすり替わっている。
「幸村くん。これが仁王くんが仰った影喰です。気を付けて下さい!」
「これが……?」
柳生の言葉に幸村はもう一度気配の方へ視線を寄せるが、すぐに表情を曇らせた。
「駄目だ。俺には何も見えない」
幸村の反応に、唯も柳生も影喰の姿は、過去に直接それに触れた者だけが可視出来ると言うことを思い出した。
二人は既に影喰の姿をこうしてはっきりと捕らえることが可能だが、一方の幸村はそうではない。
彼は二人の視線の先を辿るように追ってはいるものの、その瞳には素早く動き回る影喰の姿を映してはいなかった。
更に厄介なことに今回の影喰は複数おり、姿が見えないとなると、それだけで危険性が何倍にも膨れ上がってしまうことになる。
「柳生くん。三匹もいます。幸村くんを鏡の前へ」
「えぇ。幸村くん、こちらへ」
鏡の前へ幸村を誘導し、その前に唯と柳生が立ちはだかる。
彼には影喰の姿が見えない以上、せめてこうして二人で庇い合うことが善後策だ。
それでも幸村にも何かしら感じるところあるらしく、徐々に場の空気に慣れていくにつれ、時折、影喰いの軌跡を偶然にも辿ることがあった。
「柳生くん。ダーツは得意ですか?」
「いえ、残念ながら、仁王くんほど自信はありません」
「奇遇ですね。私もです」
やっとの思いで笑顔を作り、唯は仁王から預かったダーツケースを柳生に手渡した。
彼女の手には一本の白いダーツと、シュシュに忍ばせた仁王の髪がある。残りの二本は柳生の元だ。
影喰は全部で三匹、一つも外すことは許されない状況だが、少なくとも反射神経は唯よりも柳生の方が遥かに期待が出来るはずだった。
今のところは、唯たちの周囲の壁や床、天井のあらゆるところを泳ぐように動き回る影喰が、彼女たちに襲い掛かる様子は見られない。
だからと言っていつ何時牙を剥くのか読めない状況に、三人の緊張が張りつめる。
ダーツで狙いを定めようにも、縦横無尽に這いずる影喰の動きを読むのは非常に困難で、唯は握った手の内側に僅かに汗が浮くのを感じていた。
そうして彼女があぐねいている間に、すぐ隣の柳生が先に行動に移した。
彼の手から放たれたダーツは緩く弧を描いて空を裂き壁に突き立つ。ポイントは影喰の頭部と思わしき場所を捕らえており、ダーツを中心として、影喰が左右に半円を描きながら大きくもがいている姿が彼女の目にもはっきりと見える。
次の瞬間、まるで硝子片同士を無理矢理擦りつけるような耳障りな音が響き渡り、唯と柳生は揃って顔を歪めて耳を覆った。
「二人とも、大丈夫?」
「大丈夫です。無川さんと私で、残り二匹も足止めします」
状況が分からずに困惑した様子を見せる幸村をそれでも安心させるために、柳生は渋面を無理矢理和らげて答えた。
影喰の悲鳴は初めこそ聞くに堪えないものだったがすぐに小さくなり、それに合わせて本体自体もだらりと力を無くして壁に垂れ下がった。
やはりただのダーツではなかったのかと、唯の指に自然と力がこもる。
速度を増した残り二匹を唯は視線で追うのがやっとで、最早狙いを定めるところではなくなっていたが、それでも柳生は冷静に二本目を放ち、同じように影喰を壁に縫い止めることに成功した。
再び唯は小さく呻く。予め分かっていても脳髄に直接揺さぶる影喰の断末魔は、決して慣れることはない。
耳を覆った瞬間に思わず彼女はダーツを取り落とし、それを柳生が拾い上げる。そのまま返そうとする彼を制して、残り一匹の影喰の処理についても彼女は柳生に任せることにした。
二匹目の悲鳴が弱まったところを見計らって、柳生が三匹目に照準を合わせる。今までにないくらい俊敏に動き回る影喰だったが、それでもまだ十分対応が可能ならしくで、彼は勢いをつけるべく軽く手首を捻る。
次の瞬間、ダーツが柳生の手を離れるよりも早く、ぐたりと力無く垂れ下がっていた二匹の影喰が揃って今までにないほどの金切声を上げた。
影喰の姿が見えないはずの幸村にすらその音は届いたようで、思ってもみない不快そのものの声に耳を強く覆った。
間もなく声が遠のき、唯は咄嗟に最後の一匹がいた場所の壁を見る。既にそこには影喰の姿はなく、周囲を見渡すものの、今度こそ沈黙した二匹の姿以外にどこにも見当たらず完全に見失っており、唯も柳生も狼狽えていた。
一体どこに行ったのかと彼女は警戒を強めて、しきりに視線を泳がせる。
「無川さん! 足元です!」
柳生の叫びにはっとして、彼女は自身の足元に視線を落とす。
丁度彼女の影に忍び込み、それはそこにいた。唯の影の一部が徐に隆起したかと思うと一瞬の内に伸び上がり、思わず飲み込んだ空気で肺が満たされるよりも随分と短い時間で、影喰は彼女のすぐ目の前まで迫っていた。
影喰の頭部のように僅かに膨らんでいる部分に瞳はないが、唯は今、確かに互いに視線が交わっていることを感じていた。
心臓が握り込まれる嫌な圧迫感と、知らずに止まった呼吸に彼女の肌がぞわりと逆立つ。
柳生が再び彼女の名前を呼んだ瞬間、唯はようやく浅く息を吐き影喰から目を逸らすことが出来た。その一連の出来事はほんの一瞬のことだ。
それでも視線の隅で、影喰がまるでしなるようにその身を傾けているのを確認した彼女は、咄嗟に身体を引いた。
彼女の顔の直ぐ横を飛びぬけた影喰は、壁に当たると速度を増して跳ね返り再び襲い来る。
唯は声にならない声を絞り出し叫んだ。彼女の視線の先に立つ彼に向かって。
次の瞬間、彼女に突き刺さったのは、数えきれないほどの甲高い耳障りな音の群れだった。