
「は? はぁぁあ!?」
思わず切原の口から洩れたのは、自分でも驚くほどにそんな素っ頓狂な声だった。
「……俺の目、とうとうおかしくなったんじゃねぇの?」
ごしごしとしきりに目蓋を擦りながら、彼は瞳をこれでもかと瞬かせる。
そして、当初の最重要目的でもある美術室に向かっているということもすっかり忘れ、目の前の光景に見入っていた。
恐る恐る扉に手をかけ、頭だけをその先に覗き入れる。彼の髪を軽く風が散らした。
「ここ、三階じゃん。何で……」
一旦体勢を整えるために彼が身体を引いた瞬間、まるで狙い澄ましたように切原の背を押す追い風に襲われ、たまらずよろめく。
あっと短い声を上げた時には既に遅く、気付けばついに一歩を踏み出しており、上履き越しに伝わったじゃりという土と砕石の混じった感触に目の前の光景が幻では無いことを示した。
「マジで外っつーかコートの近くじゃん。何なんだよこれ」
困惑して切原が足元を見れば、白い上履きを薄く汚す僅かに湿った土が、そのまま仰げば抜けるような青天が広がっている。
さらさらと肌を撫でる風は、室内で感じるそれとは全く異なっていた。
「そうだ。俺、美術室に行かないと」
ぼんやりと空を見上げていた切原は、はっとして慌てて振り返り、いよいよ声を詰まらせる。
不本意ながらも先程潜り抜けたはずの教室の扉はそこには既になく、彼の眼前には校舎の白塗りの壁だけが広がっていた。
「もしかして、これってマジやばくねぇ?」
誰に問う訳でもなく呟いて、切原は思わず目の前の壁に両手を添えた。風によって吹き付けられた土埃で手の平が薄っすらと汚れ、彼はそれを見つめながら、やっぱりここはいくら考えても室外なのだと改めて実感していた。
そして、切原の脳裏を鮮やかに過ぎったのは、立海七不思議の一つでもあり、先日自分も身をもって経験したあの出来事だった。
(まさか俺、鏡の中にまた入ったのかよ。いや、多分違う。だって……)
あれから切原は仁王に言われた通りにあの鏡には一切近づいていないうえ、向かう先だった美術室と鏡のある場所は正反対の位置に属している。
可能性の一つとして、鏡が切原の通り道に移動されていた線も考えられたが、前回の時に鏡自体が壁にしっかりと打ち付けられていたことや、大きさからも言ってそもそも容易に動かすこと自体が難しいと確認をしていたはずだった。
それよりも彼が一番にここが鏡の中ではないと確信を持った要因は、この場所を覆う空気そのものだった。
(鏡の中は、もっと暗くてずっと嫌な感じしかしなかった)
今、切原が立っているこの場所は、目の前に広がる光景も肌に触れる空気も何もかもが普段と何一つ変わりがなく、むしろ居心地が非常に良いものだった。
それが多少なりとも影響しているのか、切原は違和感こそ強く覚えているものの恐怖心の類は一切なく、こうして冷静でいることが出来たのだ。
校舎の壁に再びそっと触れた彼は、やはり自分が潜り抜けてきたはずの扉がそこにないことを再確認してから必死に思考を巡らせる。
「とにかく、ここにいても何も変わんねぇし、美術室に行ってみよう。それしかねぇだろ」
そう決めて切原は、美術室のある方を一度見上げてから、改めて昇降口を目指し歩き出す。
それから少し進んだところで、楽しそうな生徒たちの話し声が切原の耳に飛び込み、彼は慌てて建物の影へと身体を滑り込ませた。
だが、聞き覚えのある声に彼がそっと様子を窺えば、見知ったその姿に切原は緊張の糸が一度に緩むのを感じた。
思わず声をかけそうになったが、その安堵感とは反対に頑として自身の声帯や足の一切が動かないことにぞっとした。
(何で俺、今隠れたんだ? 声聞いてすぐに誰か分かったのに)
もう一度、声の聞こえる先へ視線を送れば、映るのは紛れもなく切原の友人たちの姿だった。それだけで湧き上がっていた僅かな不安感が拭い去られるような感覚に満たされていく。
それでも相変わらず彼の身体が動くことはない。
初めこそ、この奇妙な空間の影響で自身の意思が阻害されているのではと思っていた切原だったが、やがてそれが、脳内で静かに響く声によるものによってもたらされていることに気が付いた。
注意して耳を傾ければ、それは以前に聞いた仁王からの警告の一つで、やがて響く声は仁王のものから切原自身のものへと変わっていく。
(やっぱりここは普通じゃない。絶対にここにいる奴に関わっちゃ駄目だ)
一度関わったら戻れなくなる。
そんな半ば本能的な感情と自身の警告する声を反芻しながら、切原は徐々に遠くなる友人たちの声が完全に消えるまで息を殺してその場に立ち尽くしていた。
その間、沸々と彼の内に浮かんでくるのは、変わらず『美術室』というイメージだった。
確信に近い直感に、切原はきっと顔を上げて足早に昇降口へ向かって進み始める。
そして扉の前に立ち、硝子扉の先に並ぶいくつもの下駄箱の群れを彼は見つめた。扉に添えた手が一瞬躊躇したが意を決して押し開けば、切原が覚悟していた通り、今度は体育館の中の風景が目の前に広がっていた。