
思わぬことで滲んだ視界は、双眼をきつく閉じてもなお嫌と言うほどに、目蓋の裏側で白と黒の明滅を繰り返している。
切原は、床に座り込んだ姿勢のまま、目蓋を閉じるだけでは足りずに更に両手でその上から覆っていた。
それでも彼が望む常闇が訪れることはなく、違和感は激しく波打つ波紋の如く眼前に広がるばかりで、こうしてただ耐えるほかない。
しばらくそうしたのち、添えた手を外し恐る恐る目を開いてみた。瞬間、刺すような鈍い痛みに再び襲われ、彼は軽く舌打ちをする。
「あぁもう! 早く治れって!」
痺れを切らし、一転してがしがしと乱暴に目蓋を擦る切原は、忌々しそうに吐き捨てた。
部活終了後、誰よりも先にと飛び出すように美術室へ向かっていた切原は、廊下の角を曲がった際に予期せぬ眩しい光に見舞われ、現在の状況に至る。
諦めて大人しく目を押さえ、ようやく明滅が収まった頃、切原は立ち上がるともう一度舌打ちをした。
「早く無川先輩のところに行かねぇと。柳先輩が先に着いたら、きっとまた色々聞こうとするだろうし……あんな言い方、さすがにないだろ」
昨日のやり取りを切原は複雑な心境になりながら思い出す。
彼の目から見ても、柳は唯に対して様々な疑いを持っているのは明らかであり、その全てを払拭しない限り、彼は決して彼女に対する糾問を緩めることはないことを、他でもない切原は自分の身を持って確信していた。
(普通さ、自分の描いた絵を自分で切るなんて出来ねーだろ)
ぴたりと彼の足が止まる。
では、一体誰が彼女の絵を裂いたのかという疑問が彼の中でも先だって主張するが、その答えの行きつく先が当然ながら丸井に向かうはずもない。
(マジ誰なんだよ。あんなことした奴。あー何も分かんねぇ)
くしゃりと髪をかき混ぜながら、切原は苛立ちを露わにする。
その瞬間、余韻のように目蓋がひくりと痙攣したのを感じて、彼は顔を再び両手で覆った。
(仁王先輩の言ってるジョーカーって誰なんだよ。何がしたいんだよ)
いくら考えても彼が満足する答えは出てこない。
それどころか、次々に浮かんでくるのは、焦燥ばかりだった。
仮に仁王や唯が、こんな理不尽な形で恨まれるようないわれがあるだろうかと、自問を重ねたところで、その答えがそもそもすぐに自分には浮かんでこないことに切原はここで初めて気が付いた。
(あれ、俺、仁王先輩や無川先輩のことについて、何も分かってねーじゃん)
あの時、仁王に言われたことをふと思い出して、切原は深く項垂れる。
鏡の中でこそその片鱗に触れる機会があったが、あれからは一切そういう類のものを目にしていない彼は、仁王と唯が普段目にしているであろう世界を知らない。
切原と二人の間には、不可視ながらも決定的なラインが引かれていて、彼が“そちら側”へと足を踏み入れることは、この先ないのかもしれない。
「足手まといなのは、仁王先輩に言われなくても俺だって分かってるっつーの」
自分には最初からジョーカーを追い詰めるどころか、その軌跡すら追うことも出来ないと、切原も深く理解している。
そして今、彼が改めてそのラインの境目を実感したのは、二人と並んで進むことも自分には難しいという事実を突き付けられてのことだった。
「……やっぱり、遠い」
知らず零れた言葉に、切原は落ちた思考を振り払うように頭を大きく横に振る。
彼らに対して自分が出来ることは、あまりにも少ない。だからこそ、その限りある中で最大限自分なりにやるしかないのだ。
そう自分を奮い立たせた切原は、美術室へ向けて廊下を走るように急いだ。
廊下に貼られた窓ガラスはいくつか開いており、そこからは時折、柔らかな風が吹き込み彼の髪を舞い上げる。
足を止めないまま、切原が窓の外に視線をやると、ちょうど薄雲に隠れていた太陽が顔を覗かせた。眩しい光に彼は眼底が僅かに疼くのを感じながら目を細める。
午前中よりも大分天候は良くなっており、吹き抜ける風や太陽の光も相まって心地が良く、気付けば切原の足は再び止まっていた。
耳を澄ませば、外から部活動に精を出す生徒たちの声が風に乗って聞こえてくる。
日曜のテニス部は、他の運動部に比べるとどこよりも終わるのが早い。だからこそ、彼にとってこの響きは、どことなく新鮮に感じられた。
そして、本日は文化部も活動をしているのか、切原のすぐ近くにある教室内からも人の気配がした。
聞き耳を立てかけて、それどころではないと思い直した彼は、廊下を抜け、一息に階段を駆け上がっていく。
そうして三階の美術室がある階まで辿り着くと、美術室へと延びる最後の廊下を見やったところで、目的地の手前にある教室に目を留めた。
扉が半分ほど開いていたのだ。
「誰かいる……?」
室内からは複数人の楽しげな声が聞こえてくる。
空き教室の一つでもあるはずの部屋で一体何をしているのかと、扉の前を通り過ぎる瞬間、切原は気になって扉の向こう側を覗き見た。
「は? な、なんだよ、コレ……」
視界の先に広がる光景に、切原の足は三度縫い止められる。
そうして彼は、全身がまるで凍りついたように呆然とその場に立ち尽くしていた。