
教室にある前後二つの扉の内、音もなく開いた前方の扉の隙間から、節くれだった指先が覗いた。妙に白い三本の指は、それだけで生気を全く感じさせない。
視界の隅でそれをとらえた唯は、それでもじっと指先に意識を集中させていた。揺らいだ炎は動きを止め、徐々にその色を無くしていく。やがて炎は、唯自身でもやっと見えるくらいの微弱な光だけを残して彼女を包み込む。
扉は既に人一人が潜り抜けられるほどまでに開いており、その先から、ゆっくりとその人物は入ってきた。
彼は鈍重な動きで黒板の前にやってくると、一旦教卓の前に立ち、同じように時間をかけて室内を見回した。それから、今度は廊下側の列から順に一つ一つ机を回っていく。
窓際にある唯の席へ辿り着くまでには大分時間がかかるだろうと唯は身じろぎしないまま、ひたすら手のひらを見つめていた。
足を引きずるようにして歩いているものの、足音や息遣いは一切聞こえない。それでも気配だけは徐々に近づいてくるのを彼女はひしひしと感じていた。
やがて、予想していたよりも随分と長い間を経て、気配はいよいよ唯のすぐ横へと並んだ。
一瞬、彼は足を止め、彼女の机の周囲をしきりに気にする素振りを見せる。唯は気付けば瞬きすら出来ずにいた。
確かめるように白い左手が唯の机を一撫でしてから、ようやく彼は歩き出す。彼女はここで呪縛が解け、彼の背中を目で追い掛けることが出来た。
用務員着姿の彼は、右腕の肘から先がない。いつ見てもその破けた布を染め上げている茶褐色の血痕には慣れないものだ。
遠ざかる背中を見つめていると、彼は次の教室へと移動するのか扉の方へ向かっていた。
後は無事出て行ってくれることを祈るばかりだと、唯が気を緩めた瞬間だった。彼女の魂魄炎が再び燃え上がり色を取り戻し始めた。一度均衡が崩れてしまうと、今の彼女には立て直すことが難しく、見る見るうちに魂魄炎は元のように揺らめき出す。
はっとして唯が顔を上げれば、男が振り返っていた。
これまで数回に渡り彼と邂逅しているが、幸か不幸か一度も顔を見たことがなかった。それが今、彼は不釣り合いな日影に余すところなく照らされており、その相貌ははっきりと浮かび上がっている。
顔の右半分は大きく抉れ紅に染まり、その眼下も押し潰したようにもれなく黒く落ち窪んでいる。一見すると無傷である左側も至る所に切り裂かれた跡が走っており、黄色く曇った左の瞳が、真っ直ぐに唯をとらえていた。
それでも唯は至って冷静だった。特に動揺も見せずにじっと見据えている。彼女は、彼が自分に対して一切の危害を加える気がそもそもないことを知っていた。
「……こんなところにいたのか。遅くなる前に早く帰りなさい」
抑揚のない彼の声が響く。言葉を紡ぐたびに、皮下より露出した血濡れの肉が引き攣るように蠢き、溢れた粘着質の体液が喉へと向かって垂れていく。
「はい。校長先生」
「さようなら。気を付けて」
「さようなら」
唯がそう答えると、男は再び扉へ向かって歩き出す。音もなく扉が閉められ、静寂が教室内を包んだ。
彼が、何代か前の事故死した校長であることを仁王から教えてもらったのは、つい先日のことだった。
車で出勤途中に自損事故を起こし、その際の衝撃で車体に挟まれ千切れ飛んだ右腕は、未だに見つかっていないそうだ。
仁王が言うところによると、彼は未だに自分が死んだことをあまり良く理解していないらしい。ただ、最後に残った思念が行きついた先がこの学校であり、彼自身は既にこの場所に溶けて混ざり合っているも同然らしい。
土地の因果に縛り付けられるのが地縛霊だとしたら、彼は同列でありながらも微妙に異なる界隈に属している。むしろ学校そのものに執着しているのは彼の思念そのものだ。それは、言ってしまえば、学校は彼の一種の憑代であるとも言えるかもしれない。
彼を学校から引き剥がすのは、相当苦労するだろうと仁王は漏らしていた。祓う予定があるのかと唯が尋ねたところ、はっきりとないと否定した。彼が自身の存在を歪めてまで留まる目的は“立海附属中学校が存在し続けること”であり、生徒及び関係者へ危害を加える意志も全くない。結論として仁王がリスクを冒してまで得るものは、有益どころか無益そのものしかないのだ。
――……いつか、ここが廃校にでもなる話が出たら、その時はどうなるか分からんがのう。
くつくつと笑いながらそんなことを話した仁王に、唯は背筋が凍るのを感じた。
毎日、校内に誰の姿がなかったとしても、校長の責務としてこうして校内の見回りを続けることが、はたして幸福か否かは、彼自身しか分からない。
机に置いたままの小説を鞄にしまうと唯は時計を見た。まだ、時間は残っているが、先に美術室に行き、鍵を開けておいた方が良さそうな時間だった。既に鍵は城咲から受け取っており、その際、彼から何かあったら速やかに報告するよう改めて釘を刺されている。
その時、突然、扉が音を立てて開いた。
「やはり、こちらにいらっしゃいましたか」
「柳生くん? あれ、まだ、部活は終わりじゃないはずじゃ」
「えぇ、もうすぐ終わりですが、幸村くんから無川さんがもうおられるか、先に確認して欲しいと頼まれまして。美術室が施錠されていましたので、もしかしたら図書室か教室かと思いこちらに来た次第です」
「すみません。お手数かけました」
「いえ、大丈夫です。もう鍵はお持ちですか?」
「はい、城咲先生から預かってます。行きましょう」
そう言って唯は立ち上がると、柳生のもとへと急いだ。