
休日であろうが、グラウンドや体育館などで部活動に勤しむ生徒の姿が絶えることはない。
それでも一歩校内に入れば、まるでそこは別世界だ。一部活動している文化部を除き、平日の喧騒は鳴りを潜め、静寂の薄い幕で覆われている。
美術室へと向かう前に教室へと立ち寄った唯は、かすかに漏れ聞こえてくる吹奏楽部のクラリネットの音を聴いていた。音の感じから、恐らく屋外で練習をしているのだろう。
いつものように教卓の裏へと回り、ひっそりと結ばれた仁王の結界に変化がないことを確認してから時計を見やる。今は十四時を少し回ったところだった。テニス部の練習が終わる予定時刻は十五時だ。
まだ、時間にいくらか余裕があると、唯は自席に座りながら、机の奥に押し込んでいた読みかけの小説を手に取る。
持て余した時間を図書室で消費しても良いのだが、空調が効き居心地の良いその空間は、休日の校内の中で最も静かに賑わう場所でもあり、到底唯にとってはあまり好ましいものではなかった。それならばいっそ、美術室や教室でこうしていた方がずっと落ち着くことが出来るのだ。
ブックマーカーに手をかけたところで、彼女はふと視線だけを出入り口に向けた。
こちらへ向かってくる人の気配がする。彼女の席から気配まで相当の距離があるはずで、通常なら到底感じ取るなど出来ないそれが、少なくとも彼女にははっきりと分かっていた。
唯はそっと本を机の上に置き、音を殺して息を吐く。気配は徐々に近づき、やがて扉の向こう側でぴたりと止まった。
彼女は、咄嗟に本に添えたままの指先へと視線を落とし、意識をそこへと集中すれば、手の外周をぼんやりとした電熱線にも似た光がゆらゆらと揺れながら覆っていく。
意識の糸を緩めないように気をつけながら、唯は二日前に仁王から聞いた話を思い出していた。
扉は一切の音を立てずに、今まさに開こうとしている。
「実害があったのは絵だけか?」
「はい。今のところは」
保健室のソファーにぐったりと身体を預け、天井を仰ぎ見ながら唯の話を聞いていた仁王は、大きく一つため息をついた。
「すまん」
彼のストレートな謝罪の言葉を聞いて、唯は目を丸くする。
仁王のそんな反応は、まるで彼らしくないと思ったためだった。
「ジョーカーが無川にまたちょっかいを出してくるのは、もっと後だと高をくくっとったぜよ」
唯自身もいつか何かしらの影響を受けるであろうと覚悟はしていたが、まさかこんな事態になるとはさすがに予想もしていなかった。
もう一度ため息をついた彼に、彼女は伝えるなら今しかないと唇を震わせる。ところが、仁王が勢いをつけて身体を起こしながら先に話し始めてしまったために、すっかりタイミングを失ってしまった。
「明後日、柳たちとやる犯人探し、どうにかして止めたいんじゃが、あの様子だとちと厳しいかのう」
「仮に私が不参加でも、好きに始めそうな雰囲気です。特に丸井くんは、気を使ってるみたいだから。でも、私も何だかすごく嫌な予感がします」
「あぁ、未だにジョーカーの手札は一切見えんのに対して、こっちの手札は表にして並べてるのと同じだからのう。じゃが、段々とやってることが悪質になってきとる。今度はいつ誰かが直接本気で狙われてもおかしくない」
考え込むように目を伏せていた仁王が、じっと唯を真剣な顔で見つめた。
こういう表情を見せる時、彼は彼女に対して何かさせようと画策している時だと感づくのは、もう大分彼の人となりを理解出来るくらいにはなったからだと、唯は自分なりに理解をしている。
唯も黙って仁王の言葉を待っていると、仁王も表情を崩さないまま口を開いた。
「一つ、覚えて欲しいことがある」
「覚えて欲しいこと?」
「あぁ、簡単な目くらましぜよ。この先、使う機会が出てくるかもしれん。まず、自分の手のひらを集中して見てみんしゃい。いつも通り視えるじゃろう」
仁王に言われるままに、唯は手のひらに視線を落とす。やがて、音もなく彼女の輪郭に沿ってを紅緋色の光が灯った。仁王の青藍色とはまるで反目しているようなその光は、一切の熱を持たない。彼女の鼓動に呼応して僅かに揺れている。
柳生が二人とまた異なる萌葱色の光をまとっていたように、仁王の話によれば、皆、生まれながらに様々な色を持っているらしい。それは自身の両親の持つ色の影響を強く受け、また、父方、母方それぞれで色が異なる場合には、どちらかの系統色を継ぐ。そして一度帯びた色は生涯変わらないとのことだった。彼はこれを魂魄炎と呼んでいる。
そして、こうして意識を集中させないと見ることの出来ない魂魄炎は、基本的に写真などの媒体に撮ることは出来ないが、ごく稀に予期せず写り込んでしまうケースもあるそうだ。
「その魂魄炎、今は不規則に動いてとるじゃろう。そこにもっと意識を集中させて、まずその動きを止めるぜよ」
「止めるって言ってもどうやって?」
「慣れんうちは、心の中で強く止まれと思えば良い」
促されるまま唯は手の平を凝視する。
揺らめく炎に意識を寄せてみるが、仁王の言う通りに変化は見られない。
「初めからそう上手くはいかんぜよ。ほら、こっち見んしゃい。手本じゃ」
眼前にかざされた仁王の手の平を唯は見つめる。
初めは文字通り炎の如く揺れ動いていた仁王の青い炎が、ゆっくりとその動きを鎮めていく。やがて、完全にその動きを止めると、それはまるで彼自身が淡く発光しているかのような静かな光に変化していた。
「次に、これを出来るだけ薄く、自分の身体と魂魄炎の隙間を埋めるように密着させるんじゃ」
言葉と共に、仁王の炎が徐々に薄らいでいく。最終的には、注視しなければ炎の色が分からないほどまでに曖昧なものになっていた。彼が言うには、ここから更に薄くする必要があるらしい。
「これが、目くらましですか?」
彼の様子には特別大きな変化は見られなかった。勿論、“目くらまし”という言葉とは裏腹に、仁王の姿もしっかりと見えている。
「霊は、相手の姿形よりも、この魂魄炎を見て寄ってくる。だからそれをこうして限りなく薄くすれば、その分、霊に存在が気付かれ難くなるんじゃ。まぁ、これは拡張出来んから自分一人を護るのが精一杯じゃがのう。もしもの時に覚えていておいて損はないぜよ。もう一回やってみんしゃい」
頷いて唯は意識を再び集中させる。
時間はかかったが、何とか揺らめきを抑えるところまで出来たものの、何度繰り返しても仁王のように炎を纏うまでには至らなかった。
「繰り返し練習すれば、そう時間もかからんぜよ。なぁ、無川、さっき俺に何か言いかけとったじゃろう?」
ふと、思い出したように仁王が尋ねれば、彼女の炎は緊張が切れ、ふるりと波打つ。
「……何を言おうとしたか、忘れちゃいました」
自身の紅緋色の炎を見つめたまま、唯はゆっくりと首を横に振った。