
実際のところは自ら起こしたことではなく、むしろ真逆の被害者という立ち位置ではあるのだが、幼子が親に秘密にしていた悪戯を告白する直前の心境はこういうものなのかと、職員室の前で唯はしばらく右往左往していた。
昨日、幸村たちにせめて城咲への事情説明は唯自身で行いたいと説得はしてみたものの、いざその時になればこうして臆してしまう。
何度目かの深呼吸ののちようやく決意して、念のために軽くノックをしてから扉を開けると、その先には何人かの教師の姿が見えた。
なるべく自分の存在を消すように静かな足取りで室内へと入り、右手奥の城咲の席の様子を窺えば、普段ならいるはずの彼の姿はそこにはなかった。
思わずほっと胸を撫で下ろした彼女だったが、念のため城咲の机の側に向かう。
彼の机は綺麗に整頓されていた。パソコンの画面はスクリーンセーバーの状態で、キーボードの上には彼のものと思しき眼鏡が置いてある。彼女は、パソコンを操作する時だけは眼鏡をかけているという城咲の話を思い出していた。
「おや? 無川くん。今日はやけに早いね?」
背後からの声にびくりと肩を揺らして唯が振り返れば、そこにはマグカップを手にした城咲の姿があった。
ゆらゆらと白煙が立ち上るその様子から、中身は彼がいつも飲んでいるココアが注がれているのだろう。
彼は机の上にマグカップを一旦置くと、不思議そうな顔で彼女を見た。
一度挫けた心の準備を再び整える暇はなかったが、唯は努めて落ち着いた素振りで話し始めた。
「まだ、鍵を返しにしたんじゃないんです。あの、城咲先生に私の絵のことでお話ししたいことがあって」
「無川くんの絵のこと?」
「はい。ここでは上手くお話し出来ないので、美術室で……」
「あぁ、分かりました。行きましょう」
城咲はパソコンを閉じると机の引き出しを開け、中から黒い革張りの手帳と万年筆を取り出す。
携帯電話の扱いすら苦手だという彼は、こういったものを好んで使っており、自身のスケジュールを念のため確認しているようだった。
彼は恐らく唯が、いつものように絵の技法やら表現で相談をしたいことがあるのだろうと思っているはずだ。
そう思うだけで、彼女は胸の辺りに見えない何かを無造作に押し込まれてしまったような息苦しさを覚えていた。
城咲のこんなにも驚いたと言う顔は、少なくとも唯はこの三年間で初めて見た。
それでも彼は、普段からごく自然に纏っている柔和さを含んだ空気だけは変わらず留めたまま、彼女の裂かれた絵を長いこと凝視していた。
やがて、傷の状態を直接触れて確かめ始めた頃になって、ようやく声を上げる。絞り出すような響きは、それでも確かに震えを孕んでいた。
「これは……一体。どうして、こんなことに……」
唯に問いかけるわけでもなく、自問するように城咲は呟く。
むしろ今、彼の視界を埋めているのは彼女の絵だけであり、唯の存在は城咲の眼前にこそあれ、実際のところは絵の外側に置かれているようにすら彼女には感じられた。
「分かりません」
彼女もまた独り言のように呟けば、彼ははっと顔を上げ、いよいよ緊張した表情を貼りつけた。
「すぐに、他の先生方に報告を……」
「待って下さい!」
職員室へと向かうため踵を返した城咲を、唯は慌てて腕を取り引き留める。
彼の困惑しきりといった瞳が、ようやく彼女をとらえた。
「お願いがあるんです。他の先生への報告なんですが、今週だけ待っていただけませんか?」
彼女の提案に対して、当然ながら彼は色よい反応を見せなかった。それでも唯は、柳と事前に打ち合わせた通りに彼への説得を試みる。
さすが柳が考えたシナリオというべきか、十分に城咲を説き伏せることが出来た。
「……無川くんの話は分かったけれど、あまり賛成は出来ないな」
そう言って考え込むように城咲は目を伏せる。
彼がここで首を縦に振らなければ、幸村たちの計画は頓挫することになるだろう。
そこで、はたと唯は思い止まった。
城咲が許可を下さなかった場合、土日に幸村たちと犯人捜しをする理由そのものがなくなるのだ。それは、唯にとっても彼らと余計な接触を持たずに済む願ってもない話ではないだろうか。
そこまで考えたところで、こういうことにおいては限りなく俊敏な思考を持つ自分自身に、彼女は軽い吐き気を覚えた。
「でも、無川くんがそこまで言うなら、今週いっぱいは伏せておくよ。ただし、土日は僕も学校に顔を出すから、何かあったらすぐに報告をするように」
「ありがとうございます」
「それにしても……修復は厳しそうだね。残りの時間で、描き直せそうかな?」
「時間的にもう無理だと思います。今年は諦めます」
城咲の表情がまた歪む。
唯は、湿った空気が体中にまとわりつくのを感じながら、乾いた舌を必死に震わせた。
「無理強いは出来ないからね。分かった。だけど、無川くんのこれまでの実績があるから、推薦に関してはまだ大丈夫だとは思うよ」
そこまで話して、彼女がこの話題の行先について今は求めていないことを察して、城咲は口を噤んだ。