
左利き。
幸村の言葉に、唯は真っ先に良く見知った一人の顔を思い浮かべていた。そして同時に、絶対に有り得ないという切望に近い思考が、みるみる内に彼女の隙間という隙間を埋め尽くしていく。
思考が招きよせる視界の明滅と、拍動の揺らぎを唯が感じ始めた時、柳の幸村に対する同意の声が響いたことで、彼女はようやく我に返った。
「人にもよるが、例の絵のように右上から左下がりに断裂痕を残すには、右手よりも左手でカッターナイフを握り切るのが好ましいだろう」
「だから、最初にブン太に試させたのか」
「あぁ、ただ、厚紙の件は、俺も想定外だった。だが、おかげでもう一つ気になることが増えたが」
そこで一旦話を切った柳は、ノートを数ページ捲ると、絵と並べ置かれた厚紙へと視線を落とした。
「無川、補強の為に絵の裏へ厚紙を入れていると言っていたが、そう言った手法は聞いたことがない。美術部では一般的なものなのか?」
「いえ、自分でも変だなとは思うんですけど、昔からの癖で。こういうことしてるのは、多分私だけです」
「左右どちらからだろうと、通常通り切り付ければ、この厚紙の影響で丸井と同じように上手くいかなかった傷がどこかにあるはずだ。だが、これは、三本ともが綺麗に裂かれている。予め絵の裏を確認し厚紙を剥がしていたんだろう。無川の癖を初めから知っていたのか、あるいは……」
柳の言葉が、徐々に独口のように変化していくのと同様に、幸村と真田もそれぞれ思案しているのか、険しい表情を浮かべていた。
彼らが何を考えているのか唯には分からない。けれど、少なくとも好意的なものではないのは明らかだった。
「それって、左利きで怪しい奴をとにかく探せば良いってことッスよね? だったら、犯人見つけるのまだ簡単じゃん」
「そりゃいくらなんでも横暴過ぎるだろぃ。ワザと左でやったかもしんねーじゃん」
徐々に重くなっていく場の空気に、切原の閃いたと言わんばかりの声が響けば、丸井があきれたように重ねた。
「だが、犯人について目ぼしい情報は勿論だが、何より圧倒的に時間が足りない。推論の一つだろうが、ある程度狙いを絞り込む必要はあるな。無川、お前の周囲にいる人間で、左利きかあるいは利き手問わずに、直近で誰かと衝突をしたり、お前に対して怨恨を抱いているような者はいないか?」
瞬間、唯の態度が硬化したのを柳は見逃さなかった。
勿論、今彼女の脳内を占めているのはたった一人の名前だが、彼らに伝えるには大きな躊躇いがあり、迷いはいくら彼女が取り繕うとも不自然に表面へと滲み溢れていた。
そんな彼女の様子を目にしても柳は特に叱責することなく、代わりにただ黙って彼女を見つめていた。
「心当たりがあるのか?」
射抜く真田の声に、唯はいよいよ口籠った。彼女の視線が僅かに宙を泳ぐ。
柳とは反対に、まるで責め立てるような彼の瞳は、彼女にとって最も苦手とも言えるものだった。
これ以上黙っているのは、いずれにせよ無理な話であり、唯は真田の目を見れないまま口を開いた。
「……同じ美術部の佐竹くんは左利きです。でも、彼は勿論ですが、他の人と喧嘩なんて私してませんし、恨まれたりとかも全然心当たりがありません」
「佐竹? あぁ、柳が言っていた二年の佐竹司のことか。確かに同じ部員なら、絵の保管場所から厚紙のことまで知っていても何らおかしくはないな」
真田の予想通りの反応に、唯は慌てたように言葉を紡ぐ。
「さ、真田くん、待って下さい。佐竹くんは、絶対にこんなことするような人じゃないです」
「他にもいるッス」
唯の話を遮るように切原が声を上げる。彼は真剣そのものと言った瞳で、全員の顔を見渡した。
「藤ヶ谷先輩。あの人も左利きだ。この前、本人から直接聞いた」
切原が彼女の名を口にするまで、唯自身も全く藤ヶ谷の存在を意識してはいなかった。記憶を手繰り寄せ藤ヶ谷のイメージを形作る。確かにその中で彼女は、カメラのリモートシャッターを左手で切っていた。
それでも佐竹同様、彼女は唯の絵に作品としての興味こそは持ち合わせていても、今回のような凶行に及ぶ理由について思い当たる節がなかった。
「まだ、いるね」
ため息を交えて吐き出された幸村の声は、この場において不釣り合いなほどに落ち着いていた。
彼女の耳に届いてもなお柔らかな余韻の残る音が、次の瞬間にはその形を酷く主張する。
「仁王と、含めるとすれば柳生も、かな?」
「あの二人にも理由はないと思うが」
彼の発言に意外なことにも真田が一番に反応を見せた。
彼は眉を顰め、幸村を非難するような色を含めて返答したが、それでも幸村は変わらず同じ調子で続けた。
「うん。でも、二人とも全く無川さんと関係がないわけではないよね」
そう言って唯に向けて微笑する幸村に、彼女は咄嗟に返す言葉を思い描くことが出来なかった。