
準備室から運び出されたイーゼルの上には、先程唯が柳に手渡したキャンバスが乗せられ、それは丸井の座る椅子の直ぐそばに設えられている。
丸井は唐突とも呼べる柳の行動の目的が分からず、困惑した様子で彼のことを見つめていた。
「一体、何を始めるつもりなんだよぃ」
「ちょっとした実験だ。無川、念のためもう一度確認をさせてくれ。このキャンバスにこれから傷をつけるが、本当に大丈夫か?」
「はい。もう捨てる予定だったので、大丈夫です」
唯の答えを合図に柳は丸井へ何かを放る。
反射的に丸井が受け取れば、それは机の上に置かれているものと全く同じカッターナイフだった。
柄の部分に【美術部】というシールがしっかりと貼ってあったことから、先程確認した工具箱の中に入っていた分だろう。
いつの間に持ち出したんだろうかと唯が思っていると、柳は丸井へ向けて淡々と話を続けた。
「丸井。そのカッターナイフで、あの絵と同じようにキャンバスを切ってみてくれ」
「はっ?」
想像もしていなかった柳の言葉に、丸井は目を丸くして、カッターナイフを握り締めたまま素っ頓狂な声を上げた。
口内にあるガムごと咀嚼して彼の言葉を飲み込み理解しようとするが、丸井の舌下にはただただ疑問が浮くばかりで、美味くもない味だけが広がっていく。
「……ちょっ、切れって、そりゃ無茶苦茶だろぃ」
彼は、ようやくそれだけを絞り出し、引き攣った笑みを浮かべてカッターナイフを机に置いた。
それから、ちらりと唯の様子を横目にし、再び柳へと視線を戻す。
「再現とかしたいなら柳がやれよぃ。さすがに俺には出来ねぇよ」
「いや、丸井がやることに意味がある」
柳に憮然と言い切られてしまえば、結局、丸井は気乗りしないまま再びカッターナイフを握らざるを得なかった。
彼は大げさにため息をつくと、音を立て飛び出す刃から唯へと視線を流し彼女と目を合わせ、困ったように眉を落とした。
「なんつーか、ごめん」
「本当に大丈夫ですから、気にしないで下さい」
唯の声に、ようやく丸井はほっとしたように今度は軽く息を吐き、イーゼルの上に乗ったキャンバスの前に立つ。
机の上にある裂かれた絵とそれとを交互に見比べたあと、彼は意を決してキャンバスに片手を添え、刃先を滑らせた。
ところが、すぐにその手は止まり、彼の口からは疑問の声が転がり落ちる。
「あれ? 何だこれ? 刃が通んねぇ」
丸井自身が想定していたよりも、刃先はキャンバスの表面を浅く抉っただけだった。
今度はぐっと強めに刃先を押し込めば、ようやく先端が貫通する手ごたえを感じ取り、彼は一旦カッターナイフを握り直す。
その様子を見ていた唯は、思い出したように声を上げる。丸井だけではなく、全員の視線が彼女へ吸い寄せられた。
「多分そのままじゃ切り難いです。私、絵が完成したら、補強用にいつも裏に厚紙を挟んでるんです」
そう言って、唯はイーゼルの裏側に回り込むと、キャンバスの裏枠に沿ってはめ込まれていた数枚の厚紙を引き剥がした。
丸井の付けたカッターナイフの跡が一つ残るそれを見つめていた真田が、何かに気が付いたように机の上のキャンバスを裏返す。
そこには、彼の予想通り厚紙はなかった。
「じゃあ。もう一回やるぜ。っと、立てかけたままじゃ、やっぱやり難い」
イーゼルからキャンバスを持ち上げて、件の絵の隣に並べてから、丸井はキャンバスへと刃を立てた。すると今度は、亜麻の布地が鈍い音を立てながらするりと刃先を飲み込んでいく。
そのまま彼が更に腕を横に引けば、絵の中心部に丸井が一度付けた刺し傷のすぐ下へ、裂かれた絵とそっくりな傷が走った。
「切ったぜ? 柳、これで良いのかよぃ」
「あぁ、切ってみてどうだ?」
「どうだったって……何か、やっぱり切り難いし、微妙にこっちと違う気がするんだけど」
元のキャンバスに付けられた傷は三か所あり、どれもが水平ではなく、緩やかな左下がりになっている。
そして、丸井が真似て付けた傷の方は、遠目での切り口の形こそ似てはいたが、切断面を良く見ると無理に刃を滑らせたように若干波打っており、明らかに異なっていた。
柳は、丸井が裂いたキャンバスの状態を確認しながら話を続ける。
「今度は、左手で同じようにやってみてくれないか?」
「左?」
丸井の疑問に対して柳は答えを返さず、彼をただ次の作業に促すばかりだった。
訳も分からず言われるままに丸井は左手にカッターナイフを持ち替えると、先程引いた傷の更に下に腕を振り落とした。
「……そう言うことか」
二人のやり取りを黙って眺めていた幸村は、彼の意図を理解したのか、小さく頷いて柳へと向き直った。
「蓮二は、犯人が“左利きの人間”じゃないかって疑っているんだろう?」