
美術室に漂う空気は、誰かが触れればいとも簡単に裂けてしまいそうなほどに張りつめた緊張感で満ちていた。
机上に乗せられているのは唯のキャンバスで、中にある事実を閉じ込めるかの如く表面は赤い布で丁寧に覆われている。
全員が机を取り囲んで座しており、ある者はそのキャンバスを注視し、またある者はそれを避けるように窓や地面を見つめていた。
やがて、その内の一人の手が、ゆっくりと布の端を掴み持ち上げた。漂う空気がにわかに熱を帯びる。
「これが、無川さんの絵か……思っていたよりも、ずっと酷いね」
幸村が裂かれた軌跡を視線でなぞり、目を細めて小さく呟き指を離せば、ぱさりと軽い音を立てて再び布が空気ごと全てを覆い隠していく。
彼は、そのまま全員の顔を順に見渡してから、話を切り出した。
「さてと。蓮二からのメールで、大体のいきさつは聞いたけど、ブン太、お前が彼女の絵をこんな風にしたのかい?」
幸村の直ぐ近くの椅子に座り、彼の様子を見まいと俯いたままだった丸井が、周囲から浴びる視線に対して怯えるように恐る恐る顔を上げれば、視線の交わった幸村が目元を和らげて彼に微笑んだ。
室内に充填する真綿で首を絞められていく錯覚を覚える閉塞感に、丸井は一瞬言葉を詰まらせただ掠れた声を上げる。
幸村が、もう一度小さい子供に言い聞かせるように優しく質問を繰り返した。
「ブン太が、やったのかい?」
「ち、違う! 幸村くん、俺はやってない!」
幸村の声を掻き消す勢いで、丸井の強く否定する声が響いた。
まるで自身に突き刺さった言葉の棘を振り落とすように、続けて丸井は首を横に振りながら、今度は小さく「やってない」とだけ重ねて口にする。
彼の膝の上で固く握り込まれた両手が、小刻みに震えていた。
「……そっか。なら、そうなんだろうね」
幸村は、丸井の返答に納得したのか、独り言を呟くように答えを吐き出した。瞬間、丸井は心底驚いたといった具合に目を見開き、彼の顔を見返す。
室内の空気がより一層張りつめる中、切原が何か言いたげに幸村に向けて身を乗り出すものの、彼はただ変わらず笑うばかりだった。
幸村の考えが分からないと、切原は助けを乞うように真田や柳へも視線を投げたが、彼らは幸村に全てを委任しているのか、その場に静かに佇むばかりで、切原が求める言葉を返すことはない。
腑に落ちないという表情を浮かべつつも、彼は止む無くと再び椅子へと落ち着いた。
幸村は、続けて唯に向き直ると、穏やかな表情のまま続けた。
「無川さん。悪いけれど、ブン太が違うと言っている以上、俺は部長としてじゃなく、友人として彼の言葉を信じるよ」
この一連のやり取りの中、それまで窓の外にあてもなく視線を彷徨わせていた唯が幸村の方を見る。
数秒、無言のまま互いの視線が交わされたあと、彼女が静かに頷いた。
「だとしても、この件、このままにはしておけないな。とりあえず、城咲先生にも事情を説明しないと……」
「……あの」
「え?」
「い、良いです。このこと、あんまり大事にしないで下さい」
唯の台詞に幸村は困ったように眉を下げる。再び気まずい空気が満ち始めた中、強い口調でそれを抑え込んだのは真田だった。
「そうもいかないだろう。風紀委員としても、こういうことは見過ごせん。きちんと報告した上で、犯人を捜すべきだ」
「俺も弦一郎に賛成だな。無川、その絵だが、絵画展に出展する予定のものだろう? 修復は間に合うのか?」
柳が壁際にかかっているカレンダーに目をやりながら尋ねれば、唯はいよいよ目を伏せた。
そうしてしばし押し黙ったあと口を開く。
「この状態だともう直せません。描き直すしか……でも、どの道もう間に合いませんね」
ふと目に入った切原が、彼女以上に悲しそうな表情をしていたことを唯は極力視界に入れないようにしていた。
城咲がこのことを知ったら、もれなく彼も切原と同じ顔で彼女を見るのだろう。それだけではない。彼には一年の頃から絵のことで師事し学んできたのだ。きっと、落胆するに違いない。
裂かれた絵を前にした時、真っ先にそのことが唯の頭に浮かんだ。
「無川さんの気持ちも分からなくもないけど、このまま伏せていてまた同じことが繰り返されたら、きっと今よりも辛くなると思うんだ。そうだね。こうしようか? とりあえず、城咲先生にだけは事情を説明するとして、この件についての先生方への報告は、週明けまで待ってもらうんだ」
「それってもしかして」
思わず切原が口を挟めば、幸村は全員の顔を見回し、少し声の調子を落としながら続けた。
「そうだよ。どこまで出来るか分からないけど、誰がやったのか調べるんだ。勿論、ブン太が関わっているというのもあるけど、こんなこと放っておけないからね」
幸村の提案に対して、誰もが異を唱えなかった。強いて言えば、唯と切原に関しては正直なところ複雑な心境もあったのだが、それを幸村たちに伝えられるはずもなく、こうして、なし崩しに幸村たちと犯人探しの計画が立てられることになってしまった。