カレイドスコーピオ

インビジブル

08.小さな部屋 / 1

「丸井先輩、これどういうことッスか」
「違う。俺じゃない……」

 立つことも出来ず床へ座り込んだ姿勢のまま、丸井は震えた声で繰り返し、やがて両手で顔を覆った。
 切原は床に這うカッターナイフをちらりと一瞥してから、まるで唸るような低い声で彼を非難する。

「じゃあ、何でこんなもん持って、ここにいるんだよ。これじゃ、誰が見たって丸井先輩が……」

 そこまで言ったところで、切原はそれ以上を言葉にすることを自ら拒むように続きを飲み込むと、軽く舌打ちをして床を蹴った。
 それでも、これ以上ここにいるのは良くない、まず場所を変えたほうがいいと思い直した切原は、床に広がる布を拾い上げ、誰の視界にもこれ以上入れないためにそっとイーゼルにかけてから、丸井に自分の肩を貸して彼を立たせた。
 その隣では、がカッターナイフを拾い上げ、じっと見つめており、その姿に切原は表情をくしゃりと歪める。
 飛び出たままの刃をしまう彼女の指の動きに合わせて鳴る、まるで時計の秒針のようにも聴こえるチキチキという音が室内に響き、丸井はびくりと肩を揺らして過敏に反応した。

「一体、何の騒ぎだ?」

 開いたままの準備室の扉から突如響いた声に、切原とが視線を向けると、そこには真田と柳の姿があった。
 柳が、切原に肩を支えられようやくといった様子で立っている丸井と、カッターナイフを握り彼らの前に立つの姿を交互に見て、怪訝そうに眉を寄せる。

「真田副部長に柳先輩! 何でこんなところに」
「蓮二と見回りだ。廊下まで赤也の声が聞こえてきたぞ。それより、お前たちこそこんな所でどうしたんだ……丸井?」
「さ、なだ……?」

 声がする方へゆるゆると視線を上げた丸井が、真田の姿を捉えると、彼の瞳が怯え見開かれる。
 そして、まるで弾かれるように切原から離れると、真田の隣をすり抜けた。続けざまに準備室の扉に身体を潜らせた瞬間、彼の腕を素早く柳が捕らえ引き留めた。
 丸井があっと短い声を上げ、反動で、彼の膝ががくりと折れる。

「丸井、何故逃げる? 赤也、事情を説明してくれないか?」
「そ、それが……」

 柳の言葉に切原は言い淀む。
 そのまま困った顔で、の様子を伺えば、真田も柳も彼女を見た。
 丸井と同じように今は彼女も床へと一心に視線を落としている。手に握られたカッターナイフが、ほんの僅かに震えていた。
 真田がを訝しげな声色で呼んだところで、見かねた切原が彼女の代わりにと事情を二人に話し始めた。

無川先輩が飲み物買ってきてた間に、無川先輩が描いた絵が、切られてたんだ。それで、その前にあのカッターナイフを持った丸井先輩が立ってて……」
「俺じゃねぇ!!」

 ばっと顔を上げて、丸井が強く否定をし、真田と柳は互いに顔を見合わせる。
 柳が、捕らえたままの丸井に視線を移すが、彼はもう逃げるつもりはないようで、ただただ唇を噛み締め悔しそうな表情を浮かべており、柳はそっと腕を離した。
 それから、切原が指し示したイーゼルの前に移動すると、の絵を確認する。

「……これは、想像以上に酷いな」

 切り裂かれたの絵の様子に、柳が呟いた。
 そして、彼はから受け取ったカッターナイフの刃を出して状態を確認する。刃の先端は欠けており、削れた油絵の具がこびり付いていた。
 間違いないなと柳は呟き再び刃をしまうと、携帯していたノートに書き込んでいく。

「丸井」

 真田にもう一度、自分の名前を呼ばれた丸井の肩がこれでもかと大きく跳ねた。
 つかつかと足早に歩み寄った真田の表情はこれまでの中で最も険しく、また、彼が纏うびりびりとした空気と相まって、丸井だけではなく切原までもが気圧され、思わず呻き声を漏らすほどだった。
 そんな彼を前にして、丸井の瞳は戸惑うように左右に揺れ、身体の震えも増していく。
 丸井が、言葉を口にするよりも先に、真田の腕が大きく振り上げられた。彼に殴られるのを覚悟して、ぎゅっと丸井は強く目を瞑る。

「待て、弦一郎」

 柳が、今にも振り下ろされそうな真田の手を制して、丸井を庇うように立ち塞がった。
 非難の色を含ませた真田の眼光にも一切臆することなく、柳はゆっくりと首を横に振る。

「まだ、丸井がやったと決まったわけじゃないだろう? 決めつけるのは時期尚早だ」
「だが、しかし」
「まずは、状況を確認してからだ」

 静かに紡いだ柳の言葉に、真田はそこでようやく腕を下した。
 丸井も切原も揃ってほっと息をつき、よろめいた丸井を切原が慌てて支える。

「とりあえず、向こうで話を聞こう。弦一郎、精市も呼ぶぞ」
「あぁ」
「何で、幸村部長まで呼ぶんスか」
「テニス部全体の問題に波及しかねないだろう。精市は部長だ」

 ちらりと丸井を見る柳の瞳が鋭くなれば、丸井は再び身体を固くする。
 切原は真田とそっくり同じ光を宿す彼の姿に、それ以上質問も出来ず黙るほかなかった。
 柳は、携帯電話を取り出すと、メールを一通打つ。すぐに相手から返事が来たらしく、まもなく来るそうだと全員に告げると、件のキャンバスを布で包んで抱え一足先に準備室の扉の先へと消えていった。

2013/01/26 Up