
美術室に入った瞬間、何かが変だと彼女は引っかかるものを感じた。
咄嗟に机の上に視線向けたが、そこは唯が席を立った時のまま変わっていない。
ペットボトルを机の上に置き、布の渇き具合を確認していると、切原が隣からその様子を覗き込んでくる。
気のせいかと考えながらも、彼女が何となしに周囲を見渡すと、切原の閉じ忘れた美術室の扉を閉めに行く後姿を捉えた。
「違う」
無意識にそう掠れるくらいの声量で呟いて、そのまま更に視線を巡らせれば、ようやくその違和感の理由が明らかになった。
美術準備室の扉が、半分ほど開いている。
普段から美術室だけではなく、併せて準備室も開錠しているため、準備室の鍵が開いていること自体には問題はない。
問題なのは、彼女が飲み物を買うために美術室を出る時には、確かに閉じられていたはずだったその扉が、今は開いているという事実だった。
もしかしたら、部員の誰かが荷物を取りに入っているのかもしれない。そう思いながら、扉の近くまで寄った唯は、半開きの扉の前に一本のペットボトルが、無造作に転がっていることに気付いた。
ペットボトルの中で、細かい泡が逃げ場を探すようにもがいている。拾い上げれば、それは彼女が買った炭酸飲料と同じものだった。
準備室内からは、人のいる気配がする。唯には、それが誰であるかについて、おおよその見当がついていた。
扉をそっと押し開けると、普段なら気にならないやけに軋む木製の扉の悲鳴が、彼女の耳へと執拗にこびり付いた。
室内に備え付けられている唯一の照明は消灯状態のままで、よりいっそう扉の先は薄暗かった。
彼女は、僅かに緊張しながら照明のスイッチを入れた。
パチン。軽い音を立て、一瞬の沈黙の内、瞬きをするように室内の暗がりが塗り潰されていく。
「……ま、丸井……く、ん?」
鮮やかな赤毛が一番に唯の目に飛び込み、そこに佇むのが予想通りの丸井であったことに安心した反面、これまで暗がりの中に一人立ち尽くし、いまだに微動だにしない背中越しの彼に得も知れぬ威圧感を感じた。嫌な予感が、彼女の胸をやんわりと締め付けていく。
ゆっくりと彼女の視線が彼の様子を探れば、丸井が何かを右手に握っていることに意識が吸い寄せられた。唯が目を凝らすようにして確かめれば、それはカッターナイフだった。
カッターナイフと言えども、生徒がペンケースの中に入れているような一般的なものではなく、大型の、しかも刃自体が相当大きく厚みのあるものだった。
カッターナイフの柄の部分に白いテープが張ってあり、そこにサインペンで『美術部』と書かれた文字の一部が覗いていた。
これは準備室に常備されているものであり、主に段ボールなど、厚みのあるものを切り裂くのに適しているものだ。
そのまま視線を下げれば、床に広がるこれまた見覚えのある布に気付く。
一瞬、まるで彼の足元に広がる血だまりのようにすら見えたそれは、彼女が自分のイーゼルにかけている埃避けの赤い布だった。どくりと彼女の心臓が嫌な跳ね方をした。
唯は、丸井がいまだに刃を出したまま、カッターナイフをしっかりと握り締めていたのも構わず、足早に彼に近づいた。
そうして、彼の肩越しに映った光景に、彼女は声すら上げることが出来ずにただ立ち尽くした。
「無川先輩。どうしたんスか?」
準備室の入り口から、能天気な切原の声が響いたが、唯も丸井も反応しないまま、無言の返事を返す。
切原はもう一度同じ調子で尋ねたが、彼女の先に自分が探し求めていた丸井の姿を見つけ、いよいよ準備室の中へと足を踏み入れた。
「……丸井先輩? んだよ。何でこんなトコに……」
唯の身体でちょうど隠れてしまっていため、丸井がカッターナイフを握っていることに気付かない切原は、ただただあきれたような声を上げながら、二人に近づく。やがて、唯の横に並び、彼女が見た全てのことをその瞳に映したとたん、彼は声を荒げた。
「なっ、何やってんスか!! 丸井先輩っ!!!」
その声に、それまで微動だにしなかった丸井の肩が大きく揺れる。
同時に、カッターナイフが彼の手から滑り落ち、床に乾いた音を立てて叩きつけられた。
まるで夢の中を漂っているような虚ろな瞳でぼんやりと見つめていた丸井が、眼前の“それ”を認識した瞬間、乾いた疑問の声を上げ、よろめきながら、その場にへたりと座り込んだ。
そして、自分の手がカッターナイフに触れ、反射的にそれを拾い上げる。
「な、んだよこれ? 違う、違う。何の冗談だよ……違う、俺じゃない……」
カッターナイフと“それ”を見比べた丸井の身体が、がたがたと激しく震え出す。
再び彼の手から、カッターナイフが落下し、切原は咄嗟に丸井から引き離そうと蹴り飛ばした。
「……酷ぇ」
切原が、押し黙る唯の代わりに耐えかねて呟いた。
丸井の眼前にあるイーゼルに置かれていたのは、なだらかな坂のように右上から左下へ向かって三本に渡り引き裂かれた、絵画展に提出する予定であった、彼女の自画像だった。