
あれから長いこと自動販売機の前に佇んでいたことは自覚していたが、まさか二十分以上もいたとは、さすがに唯も自分の行動に驚いていた。
ようやく歩き出したものの、それでも美術室に戻る足取りは限りなく重く、のろのろとした緩慢な動作で、彼女は廊下を歩いていく。
やがて、美術室へと続く階段に差し掛かり、益々速度を落として進んでいた途中で、反対に階段を駆け下りてくる切原と出会った。
「無川先輩」
「切原くん。あれ? 練習してたんじゃ?」
軽く会釈をした切原が、いまだに制服を身にまとった姿のままであることに唯は首を傾げる。
先程確認したメールによれば、彼は今頃、テニスコートにいるはずだった。
「丸井先輩待ちッス。けど、飲み物買ってくるって言ってから、全然戻って来なくて、迎えに行こうかなって思って」
「丸井くんなら、さっき自販機のところで会いました。でも、もう三十分くらい前の話ですけど」
「はぁ? もーどこで油売ってんスか、あの人。まーいつものことだけど」
あきれたように声を落とした切原は、踊り場の壁に寄りかかる。
窓から差し込んだ光が、二人の足元を柑子色に照らしていた。雨の匂いはすっかり去り、余韻すら微塵も残っていない。
唯も彼に倣おうとしたが、肩にかけていた鞄が自分の身体よりも先に壁に当たったため、慌てて前へと抱え直す。
そこで切原が手ぶらで、ラケットバックすら持っていないことに初めて気が付いた。
「ジャッカルくんや国舘くんは、もう先にコートに行ったんですか?」
「あぁ、多分もう二人は先に始めてると思う。国舘の奴、レギュラー候補に上がったから、最近特に練習熱心でさ」
話しながらどことなく嬉しそうな彼の様子に唯も表情を和らげる。
そのまま次の言葉を紡ぐのに、一瞬だけ躊躇したが、彼女は表情を崩さないように注意しながら重ねた。
「国舘くん。あれからどうですか?」
切原の表情に一転して薄い影がかかった。
それでも、この役を買って出たのは、他でもない切原自身のため、彼は努めて明るい声で口を開く。
「大丈夫ッス。あのことは何も、一切何も覚えてない」
まるで言い聞かせるように呟いて、それから切原は長く息を吐き、ゆっくりとかぶりを振った。
彼の言う“あのこと”とは、鏡の中で起きた一連の出来事を指している。
国舘の記憶に残る最初で最後の怪異は、切原が行ったこっくりさんだった。
そこまで彼の記憶を巻き戻したのは仁王であり、いまだにその方法の詳細については、彼以外知るところではない。
こっくりさんの記憶まで改ざんを加えなかったのは、彼曰く、対象とする期間が長ければ長いほど、沈んだ記憶が浮上する可能性が高まるという。そのため、仁王の判断で、こっくりさんの時の記憶はそのままにすることになったのだ。
記憶は、同じ記憶を共有していた人間との接触でも容易に揺さぶられる。国舘の場合、日々の練習で否にも応にも切原たちと出会う以上、そのリスクは高かった。だからこそ、誰かしら彼の様子に変化が生じないか、言わば監視役のような人間が必要であり、今回その役割を担うことになったのは切原だった。
「なら、良かった」
「俺もそう思う。あいつは、こんなこと知ったら怒るとは思うけど」
切原は笑って携帯電話を取り出すと、素早く操作し発信をかける。
相手は丸井のようだが、しばらく鳴らしたあと、軽くため息をついて通話を切った。
「あーやっぱり出ねぇし。丸井先輩、いつもバイブだからなぁ……ホント、どこまでほっつき歩いてんだよ」
「もう、さすがにコートに戻ってるんじゃないんですか?」
「まだだって。国舘から今メール来てた」
話しながら、メールの返信を作成する彼の指先が、澱みない動きでキーを叩いている。
やがて打ち終わったのか、彼は携帯電話彼を制服のポケットへ突っ込んだ。
そして、ふと思いついたように切原は顔を上げ、唯の顔をじっと見つめた。
「無川先輩、今日も横断幕作業中ッスか?」
「え? あぁ、はい」
「んじゃ、ちょっと覗いてってもいーッスか?」
唯の返事も待たずに壁から身体を浮かせて、先に歩き出した切原を彼女は慌てて追い掛ける。
「良いですけど、丸井先輩は……」
「もーあの人ふらつき出すと、満足するまで戻ってこないから良いッス。それより、今戻ったら、国舘がジャッカル先輩と俺に気ぃ遣って、審判やるって言い出しそうだし。もう少し時間おいてから戻ろうと思ってる」
いよいよ鼻歌混じりになって歩を進める切原に、唯は彼の意向も汲んで、それ以上丸井の件を口にするのは止めることにした。
「横断幕、どこまで進んだんですか」
「まだ、下塗りの一部が終わったくらいです」
「へー、まだまだかかりそう?」
「はい」
切原が意識しているのか分からないが、あまり積極的に話を進めるタイプではない唯に対して、彼はいつもなるべく彼自身が主導権を握る形で会話を進めてくれる。
人気のない廊下を二人で並んで歩く。先程まで、鉛を足に括り付けたように鈍重だった彼女の足取りは、切原に会ってから既に軽くなっていた。