
無遠慮に開かれた扉の先に立つ彼女の姿を見た時、唯は、今日は会う約束をしていないはずだと首を捻った。
「遅くなりましたー! あれ……切原くん?」
「うわっ! 藤ヶ谷先輩」
「ちょっと! うわって何よ! 人を幽霊か何かみたいに言わないで」
切原にとっても全く予想もしていない人物の登場に、彼はたまらず驚きの声を上げる。藤ヶ谷は、そんな切原を不服そうに一瞥してから城咲に向き直った。
「藤ヶ谷さん。今日、横断幕は描かない予定なんですが……」
「あぁ、無川さん、知ってる、知ってる。今日は、違うことで呼ばれたの。城咲先生。早速始めちゃって良いですか?」
「はい、宜しくお願いします」
以前見た時と同様に手早くカメラを組み立てると、藤ヶ谷は城咲から一冊の画集を受け取る。
彼女は鞄を手繰り寄せ、その中から白い布を引き出してから、それを机に敷き、更にその上に画集を置くと周囲を見渡した。どうやら光の当たりを気にしているらしく、小さく唸ってから、鞄の中より今度は、文庫本よりも二回りほど大きな白い本のようなものを取り出した。
折り畳まれているらしいそれを広げると、丁度A3サイズほどまでになり、マットシルバーの面が光を柔らかく反射していた。一般的に、レフ板と呼ばれるものだ。
スタンドの部分も内側に折り畳まれており、調整しながら藤ヶ谷はそれを二枚机に並べると、ようやく満足気にカメラのファインダーを覗き込んだ。
「藤ヶ谷くんも色々と忙しいのに、わざわざ時間を空けてくれてありがとう」
「いえいえー」
藤ヶ谷は、ファインダーから目を離さずに城咲へ返すと、続けざまにシャッターを切った。
微かな機械音が響く中、切原が一体何が始まったのか分からないと言った様子でそれを見つめていると、城咲が少し照れたような声で説明した。
「その美術書は、特に気に入っているものなんだけど、紙の痛みが激しくてね。本末転倒だけど、この先、あまり頻繁に眺められそうにないから、どうしようかと思っていたところに、藤ヶ谷くんがデジタルデータ化の提案をしてくれたんだ。僕は機械に関しては本当に疎いから、助かったよ」
「勿論、私的利用の範囲でね」
相変わらず、三人の方は見ずに藤ヶ谷は、シャッターを切りつつ続ける。
へーと理解したのかしないのか、どちらとも取れる表情を浮かべていた切原は、いかにも名案を思い付いたとでも言うように突如瞳を輝かせた。
「忙しいみたいなんで、俺、出直してきます!」
この場から一旦逃げ出す口実が出来たと、切原が唯とすれ違いざまに小さく笑って見せたところで、慌てた声が追い掛ける。
「あ、待って! 切原くん!!」
引き留めたのは、唯ではなく藤ヶ谷で、その声に切原は再び、げっと小さく漏らした。
「折角だから、切原くん。一冊本を持ってそこ座って!」
「ちょ、俺部活中」
「面白そうだから。城咲先生、一冊お借りしますね」
「構いませんよ」
「ありがとうございます! さ、切原くん。とっとと座って!」
切原は何やらぶつぶつ文句を口にしていたが、やがて大人しく藤ヶ谷から本を受け取ると、木製の椅子に座った。
唯は、決して乗り気ではないものの、何だかんだで新聞部の言うことに従順な切原のその様子を見て、テニス部と新聞部の間で契約的なものが結ばれているのだろうかとすら考えていた。
シャッター音が響く。一枚撮影したところで、ディスプレイを確認した藤ヶ谷が、噴き出すように笑い出した。
「やっぱり、ジャージ姿じゃ、全然決まらないわね」
「だから言ったじゃないスか! それにこういうの、俺マジ似合わないし」
「うん。良く分かった」
「あーもう。無川先輩、それじゃ俺、戻るッス。柳先輩からの伝言、また今度伝えるッス」
不貞腐れた声を残し、今度こそ切原は美術室から逃げ出した。
藤ヶ谷はまだくすくすと笑っていて、この光景を後ろで見守っていた城咲も、どこか微笑ましいものを見るような眼差しで藤ヶ谷を見つめていた。
それから、作業の再開を切り出した彼の言葉に唯は頷いて、再び新しい画集のページを捲ったところで、先程よりも随分と唯に近い距離からシャッター音が響いた。
彼女は、ちらりと視線だけを送りカメラを捉える。丸いレンズの真ん中に、少し眉を寄せ歪んだ彼女の姿が映っていた。
「城咲先生も、無川さんも、やっぱり中々絵になってるなーって。気にしないで続けて続けて♪」
上機嫌に藤ヶ谷はシャッターを思うがままに切る。
唯が困ったように城咲へと視線を向ければ、彼も同様に困惑しながらも、仕方がないと言わんばかりに軽く首を縦に振った。
仕方がない。
彼女も諦めたように反芻すると、定期的なシャッター音が響く中、ただひたすら眼前の画集に意識を集中した。