
「城咲先生」
「あぁ、無川くんか。お疲れ様。悪かったね」
城咲は、右手に持ったパレットを机の上に置くと、広がる画材道具を手早く片づけ始めた。
唯はその様子を見て、慌てて机の上に鞄を置くと、首を横に振った。
「私のことは気にしないで、城咲先生は続けて下さい。今日は、絵を描かないので」
「いや、丁度、止め時だと思っていたから良いんだ」
城咲が今絵を書くために座っているのは、いつも唯が定位置として選んでいる場所と全く同じだった。
彼が、美術室に訪れた彼女に対して開口一番に謝罪の言葉を口にしたのには、二つの意味が込められている。
一つは、彼女のテリトリーを自分が占有していたことで、二つ目は、彼が彼女よりも先に美術室の鍵を開いていたことについてだ。
放課後、部長としての最初の仕事をするため、すぐに職員室へと出向いた彼女は、普段ならいつも自席にいるはずの城咲の姿がそこになかった時点で、彼が今、美術室で絵を描いているのだろうと予想をしていた。
「城咲先生が油絵描いているところ、私、初めて見ました」
「そうだったかな? 何だか急に描きたくなってね。今は水彩が中心だけど、これでも学生の頃は油絵専門だったんだよ」
そう言いながら、城咲は筆先に付いた油絵の具をペーパーで拭う。
唯が彼の絵をもう少し近くで見ようと、側へ寄ったところで、まだ生乾きのままであるのにも構わず、城咲は絵の上から布をかけてしまうと、そのままイーゼルを抱えて、準備室へと足早に歩き出した。
唯も本日の目的である横断幕制作の準備をするために、彼の後ろに続く。
「そうだ。無川くんに、少し手伝ってもらいたいことがあるんだけど」
イーゼルを準備室の奥の方へと押し込みながら、城咲が背後で横断幕の籠に手を伸ばしかけていた唯に声をかけた。
「はい。何でしょうか?」
「美術書のチェックなんだけど。ちょっと、僕一人じゃ時間がかかりそうなんだ」
「分かりました。大丈夫です」
「ありがとう。助かるよ」
城咲は本棚の鍵を開き、上から順に美術書を取り出す。唯はそれを受け取って、準備室の外へと運び出した。
ニ十冊ほどの量とは言え、美術書なだけあって本自体のサイズが大きくかつ重量なものもあったが、それらは城咲が運んだため、実質のところ唯は、数回の往復程度で全てを運び終えた。
一通り机の上にそれらが置かれると、寄稿本と城咲の私物とに改めて並び替えられる。特に彼の所有するものは、所謂古書の部類に入るものも多く、取扱いに注意しなければならない貴重な本も中にはあった。
唯は一冊の画集を掴むと、慎重にページの破損は勿論、紙魚がなどが住み付いていないかどうかを確認していく。隣に座る城咲も、同様に本を捲っていた。
二冊目に手を伸ばした時、それが、先日美術室を訪れたあの人が熱心に眺めていた画集であったことに気付いた唯は、彼との約束を思い出した。
「城咲先生」
「ん?」
「男子テニス部の部長の幸村くんが、先生の美術書を見せて欲しいってこの前言ってたんです。今度、ここで見せても良いでしょうか?」
「あぁ、あのルノワールの好きな生徒だね。別に構わないよ」
「ありがとうございます」
色よい返事に唯はほっと胸を撫で下ろし、機会に恵まれれば幸村に伝えようと考えながら、再び画集に向き直る。集中しているが故に互いに無言だが、彼女はそれで一向に構わなかった。
その時、扉をノックする音が響き、城咲と唯が揃って扉へと視線を滑らせれば、少し間が空いて、ゆっくりと扉の隙間から切原が顔を覗かせた。
「あ、無川先輩。っと、あれ? 城咲先生? お疲れ様ですー」
へらりと笑って、彼が室内に入ってくる。レギュラージャージ姿の彼は、ここまで走ってきたのかうっすらと額に汗を浮かべている。
「切原くん。どうしたのかな?」
「あ、えーと、えーと。柳先輩から横断幕の件で、ちょっと伝言を頼まれたことがあって」
普段、姿を見ることがあまりない城咲がこの場にいたことに、切原は、明らかな動揺を見せながらも彼に返事をする。そして、ちらりと唯に視線を向けた。
彼の言葉にぴんと来た唯は、すぐに続けた。
「柳くんから少し話は聞いてます。レイアウトについて、少し変えたいところがあるとか」
「あ、そ、そうッス!」
助かったと言わんばかりに表情を緩めた切原が頷くと、城咲は不思議そうな顔をしたのち、軽く頷いてから唯に向き直った。
「そうなんだ。大分手伝ってもらったし、こっちの残りは僕一人でも出来るから、無川くんも自分のことを優先して構わないよ」
「いえ、今日は佐竹くんも来れないですし、新聞部の藤ヶ谷さんにも連絡を入れてないんで」
切原の当初の目的は全く違っているのだろうが、とりあえず今は互いに横断幕の件に話を合わせた方が良さそうだと、彼女が切原に軽く目配せをした瞬間、もう一つ明るい声が扉を開く音と共に飛び込んできた。