
用事があるという佐竹を先に帰宅させ、唯は美術室を施錠し鍵を城咲へ届けたあと、もう一つの自分の用事を済ませるべく、昇降口とは反対の方向へ歩いていた。
そして、思わぬところで彼らの練習風景を見ることになったのは、本当に偶然だった。
(この廊下から、テニスコート見えたんだ)
意外な発見に、唯は足を止め、誘われるように窓の近くへと歩み寄った。
彼女のもう一つの用事とは、屋上に張ってある憑代の確認だ。いつもと同じルートを選んで、階段を上へ上へと進んでいた彼女だったが、その途中で、急に違うルートに切り替えたのは、単なる気まぐれだった。
気分転換を兼ねた選択だったが、いざ廊下を進んでみると、唐突に軽やかなインパクト音が彼女の耳を微かに掠めたのだ。
立ち止まったまま、音の出所に耳を傾けてみれば、廊下に並んだ窓の内、隅の方にある一角から、テニスコートのほんの一部が見えることに気が付いた。
更にその限られた空間に、見知った複数の影を見つけてしまえば、否が応でも彼女の足は、その場に縫い止められてしまっていた。
その影とは、切原と丸井、ジャッカル。そして、先程、美術室に訪れたばかりの藤ヶ谷だった。
当然ながら、彼らの会話が唯のところまで聞こえるはずもない。ましてや、彼らが今ここで唯が頭上から見下ろしているなど、気付くはずもないだろう。
彼らの行動を密かに観察するような心境に浸りつつ、唯は四人のやり取りを見つめていた。
藤ヶ谷が、カメラを片手に三人に何かを指示している。何となく彼女の話している内容が、唯の頭の中で再現された。
次の瞬間、切原が大げさに肩を落として項垂れれば、表情が見えなくとも、彼の心情が容易に読み取れて、思わず唯は一人苦笑を漏らした。
深い理由もなく、彼らの様子を眺めていると、切原がゆっくりと顔を上げた。そして彼の顔が、みるみる内に満面の笑みになっていくのと、唯がしまったと思ったのは、ほぼ同じくらいのタイミングだった。
切原が大きく唯に向かって手を振り、その口元が何かを叫んでいる。彼の視線は、真っ直ぐに彼女へと向けられていて、彼の口元が紡ぐ言葉は、もしかすると、唯の名前であったかもしれない。
唯はそのことを確かめるよりも早く、咄嗟に窓から身を引く。
彼女の視界から彼らが消える瞬間、切原以外の三人も、一様に窓へと振り返ったような気がして、唯の中で不安が急速に膨らむのを感じていた。
少し鼓動が上がった胸元を押さえながら、彼女は一つ深呼吸をする。彼以外に姿は見られていないと思うが、もし、切原が唯の名前を呼んでいたとすれば、彼女の取った行動は殆ど意味がない。
そこまで考えて、もし身を引かずにあのまま切原に手を振り返したら、どんな反応があっただろうかと、そんなことが頭を過ぎった。
ところが、すぐに、“考えたところで、もう一度窓へと歩み寄る勇気など、自分には到底ない”という思考へ暗転していく。
窓までのほんの僅かな距離やテニスコートから溢れる喧騒が、恐ろしいほどまでに遠く、別世界そのもので、結局、唯は逃げるようにして、足早にその場を去った。
「無川先輩ー! あれ?」
「どうしたんだよぃ? 赤也」
首を捻る切原の視線の先を辿るように見上げた丸井は、誰も居ない校舎の窓をその目に捉え、怪訝そうに眉を寄せた。
「無川? 誰もいないぞ」
ジャッカルも続いて同じように窓へと視線を注いでいたが、丸井とそっくりな顔をして切原に向き直った。
「いや、そこに居たんだと思ったけど、見間違いかな」
「じゃねーの? 誰もいねーし」
丸井が口に含んだガムを膨らませた瞬間、狙ったようにシャッター音が響く。
「おい、藤ヶ谷! いい加減、いきなり写真撮るの止めろよぃ」
「シャッターチャンスは逃さないのが、私の流儀なの」
「撮られる方の立場にもなれよ」
「読者が求めるものを、ただ私も求めて、それを記事にするだけよ」
「ホント、お前のパパラッチ精神、頭下がるわ」
「あら、失礼ね。ジャーナリズム精神と呼んで欲しいわ。こら、切原くんと桑原くん、そこ逃げない!」
いつの間にか、少し離れたところにいた切原とジャッカルは、互いに顔を見合わせると、そのまま丸井を置いて走り出した。
丸井は、軽く舌打ちすると、二人に向けて非難の声を上げる。
「丸井先輩! あと宜しくッス!」
「悪ぃ、ブン太 任せた!」
「あっ、テメーら! 待ちやがれ……後で覚えてろよぃ」
脱兎の如く走り去る二人を追い掛けようとした丸井を、軽い咳払いと共に藤ヶ谷の腕がしっかりと引き留めた。
「じゃあ、次の新聞。特集第二弾は、丸井くんで決まりね♪」
「げっ……」
にっこりと笑みを浮かべた藤ヶ谷は、引き攣った表情の丸井をファインダーに収めた。
「やっぱり、お前パパラッチじゃねーか」
丸井の呟きは、遠慮なく切られたシャッター音に掻き消される。
そんなエピソードについて、唯が知ることになるのは、切原から夜に送られてきたメールからだった。