
美術室の扉の前に立った唯は、弾む息を整えるためにニ、三度深呼吸を繰り返す。
やがて、鼓動が落ち着いた頃にようやく扉を開くと、佐竹が自分の画材道具を片づけている光景が目に飛び込んできた。
咄嗟に唯は、クリアファイルを持つ手を下に下げ、それとなく彼から見え難い場所へと持ち替える。
「あ、無川部長。ちょうど良かった。今日、これ置いていこうと思うんですけど、準備室のスペース空いてますか?」
「えぇ、大丈夫です」
佐竹の側に向かう際、彼女は机の上に置いてある自分のカバンの下へとクリアファイルを滑り込ませた。
彼はそれに全く気が付いていないようで、イーゼルを持ち上げると先に準備室へと入っていく。
「ところで、生徒会の話って、何だったんですか?」
「あ、あー……」
そう聞かれて、佐竹に横断幕の件を話すべきか一瞬だけ彼女は迷ったが、すぐに口籠る。
彼のテニス部に対する反応を思い出したためだった。もし、話したとすれば、佐竹なら間違いなく良い顔はしないだろうし、もしかすると、生徒会室へわざわざ断りに出向いてしまうかもしれない。
「少し頼まれごとがあって……」
結局、それだけを話せば、彼はふぅんと、少し納得いかないような素振りを見せたが、それ以上は聞いてこなかった。
佐竹の隣に唯も自分のイーゼルを並べる。
「無川先輩。絵、見せてもらってありがとうございました。参考になりました」
「参考に、なったのかな?」
呟きに近い彼女の声に、佐竹は、はいと明るい声で返事を返す。
再び沸き起こった重く湿った感情を、唯は今度こそ誰にも気づかれないように必死に飲み込んだ。
「……で、結局受けるんか? これ」
唯の手渡した横断幕のデザイン画を一通り見ていた仁王は、半ばあきれたような声を上げながら彼女を見た。
柳生が小さく申し訳ありませんと謝罪の言葉を口にしたので、唯は慌てて首を横に振る。
「とてもじゃないですが、断り切れる雰囲気じゃありませんでした……でも、本当に横断幕の話だけで、仁王くんの話は一切されませんでした」
「まぁ、参謀のことじゃ。探りを入れただけじゃろう。だが、いずれにしても俺たちが何をしてるかを知るのも時間の問題ぜよ」
「もしかして、仁王先輩、柳先輩たちにもこのこと話すつもりッスか?」
意外そうな目をした切原が声を上げれば、仁王は頷く。
「タイミングは大事だがのう。それよりも今は、ジョーカーの動向の方が気になる。まぁ、柳生も赤也もあれから変な目にはあっとらんみたいだし……ん? 何じゃ?」
仁王が、クリアファイルの中身を一通り確認していると、その内の一枚に目を留める。軽く流し読みすると、彼はあぁと呟いた。
「進路のやつか。無川、外部にいくんか」
「え、そうなんスか? 大阪府立ナントカ高等学校、総合美術科?」
切原が仁王の横から、興味津々と用紙を覗き込んでくる。
「駿瑛(しゅんえい)高等学校ですよ。切原くん。その学校名なら聞いたことがあります。絵画から造形まで、美術系の科目が幅広くある高校ですね」
柳生が説明すると、切原がへぇと感嘆した。
「進路かぁ。俺もこの前、先生と面談やったけど、あんまし深く考えてなかったなぁ。周りの奴も、そのまま立海の高等部上がる奴ばっかだし。あ、柳生先輩も仁王先輩もそうッスよね?」
「えぇ、その予定ですよ」
「まぁな」
仁王からクリアファイルを受け取った唯は、曖昧に笑ってそれを鞄にしまった。
柳生が言うには、中等部だけではなく、高等部も強豪校に名を連ねている立海は、テニス部のOBもほとんどが高等部へと進学しているらしい。
切原以外のレギュラーは全員三年であるが、その誰もがやはり立海の高等部を選択したということだった。
「それにしても、ホント何もないッスねーって言っても、あれから一週間しかたってねぇけど」
切原がソファーに勢い良く凭れ掛かれば、軋む音が部屋中に反響する。
彼の言う通り、柳生の件から、何か異変が起きる気配もなく至って平和な時間が経過していた。
「ずっと考えていたんですが……」
柳生が、神妙な声で全員の顔を見渡す。
「ジョーカーは、テニス部に関係する人物ではないかと仁王くんは仰いましたよね? もし仮に私がジョーカーだとしたら、それこそテニス部が最も活動するタイミングで何かを仕掛けると思うんです」
「俺も柳生に同感じゃ」
「えぇ、だから、もし次に事が動くとしたら、関東大会の辺りだと思うんです」
驚いたように切原が起き上がり、柳生を見つめる。
「関東大会って、もうすぐだし」
「切原くん。関東大会っていつなんですか?」
「そっか。無川先輩、そういうとこ詳しくないか。今月の二十七と二十八ッス」
言われて唯は、携帯でカレンダーを確認した。今は七月二日のところでカーソルが点滅している。
関東大会は七月の第四週の終わりということなる。更にその二週間前が、美術部の絵の提出期限だった。
すぐに関東大会の日付にメモを登録すると、該当の日付欄に薄い桃色のマスクがかかる。
「それまでに少しでも足がかりが掴めれば良いんじゃが、ジョーカーが動かないとなると、ちと厳しいのう」
「まぁ、何かあったら、仁王先輩と無川先輩がいるし、大丈夫だって」
呑気な声で切原が言えば、僅かに険しい表情を浮かべていた仁王が、やれやれとあきれたように息をついた。